赤毛のアン
一輪車

NETFLIXにて『アンという名の少女』という海外ドラマをみました。
原作はかつて乙女だったことがある人ならだれもが知るカナダの女流作家ルーシー・M・モンゴメリ。
わたしは乙女ではなく無骨な男なので知りませんでした。(「まあ、モンゴメリーを知らないなんて!」)

でも『赤毛のアン』はむかし読んだことがあるような気がしております。内容は覚えておりませんが。
(「まあ、赤毛のアンを忘れたなんて!」)

制作・脚本を見てびっくり。『ブレイキング・バッド』の女流脚本家モイラ・ウォリー・ベケットとなっている。
『ブレイキング・バッド』は夢中になって観たドラマです。てっきり男性がシナリオを書いたものだと思っていた。とても女性には書けないハードな内容だから。とはいえ、全編にときおり挿まれるユーモアはちょっとばかり「アン」にも通じるのか。

監督はタラ・エリス。よく知らない監督ですね。この人も女性らしい。

主演のアンを演じるのは、どこからみてもニンジンのような少女、エイミーベス・マクナルティ。(よく見つけてきたものだ!)そばかすだらけの明石家さんま、のような少女です。

要するにメインスタッフは女性ばかりで、女性たちだけでわいわいがやがや、やりながらつくった、そういうドラマという感じがします。

にしても飛び抜けている。
ズ抜けている。
超一級、超弩級、超一流のドラマと断定していいでしょう。

この歳まで何百本と映画やドラマは観てきましたが、映像やストーリーや演技が、観るものにこれほどまでに「豊か」さを感じさせるものはあまりありませんでした。
つまり「豊かさ」という面で切り取ればこのドラマはやはり超弩級の一級品であると認定のハンコをドンと押すしかない。

ではどうしてそのような「豊かさ」が画面から豊穣にこぼれでてくるのか?
それはなにゆえなのかと一歩前へ。

ひとつには、ドラマで演じられるほとんどの人たちが貧しい田舎のビンボー人ばかりだということがあります。
貧しいことのなかにある豊かさというか神々しさなんていまどきだれも理解できないでしょうから、説明に困るのだけど、貧しいことの豊かさというものをこれほどうつくしく描けたものなどちょっと他に思いつきません。

残り少ない時間をドブに捨てるほど若くはないのでわたしは日本のドラマはまったく観ません。日本ドラマはこの十年、悲惨といってもいいほど低調だからです。
それは文学にもいえる。
貧しき人々の世界がわからなくなればとうぜん美しきもの、神々しきものも消え失せる。
わたしは共産主義者でもなんでもない。貧乏人が偉いなどといってるのではない。
生活的な豊かさはある種の感性を消失させるといっているのです。

この映画をつくった人たちは貧しくはなく裕福な生まれの方々もいらっしゃるが、日本人と違うところは貧しい存在への眼差しを失っていない。
そこが決定的に違う。

高畑勲はアニメ『赤毛のアン』にて、子どもの無垢なおおらかさは描けても、差別された存在や貧しさの奥に眠る豊かさと神々しさをアニメではざんねんながら描くことはできなかった。

ああ、堅苦しい話をしてしまった。
赤毛のアンならそっぽを向いてしまいそうだ。アンの素晴らしさはもちろん、入道雲のような好奇心ですね。
わたしがときどきコメントを書いている某投稿板にも最近、そんな方が顔を出されている。
わたしなぞが下手くそ!と内心思っている投稿作にいちいち目を剥いて感激、感動している。
最初は「ちっ!」と内心舌打ちしておりました。「ええかげんにせい」
でも、この方は、どうやらときどき文学の世界に迷い込んでくる正真正銘の赤毛のアンのようでした。
わたしなんかが失った好奇心をいまだに保っている。感動することの歓びを失っていない。
だから、わたしからみればあまりぱっとしない作品にも、なにか感じることができる能力があるのでしょう、
ひとつひとつ感動と感激の言葉、読めて幸せ、感謝しますとコメントする。

赤毛のアンには勝てない。










自由詩 赤毛のアン Copyright 一輪車 2018-07-12 08:55:17
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