be here now
ホロウ・シカエルボク

その昔、ロックンロールがまだ不良の―不良の、なんて括りもどうだろかいとおれぁ思っちゃうんだけど、まあ要するに、そのあれだ、誰が言ったか知らないがセックス・ドラッグ・ロックンロール、なんて、つまるところそういうものだったわけよ、60年代、70年代とかね…ライダージャケットとか着てね?髪の毛を妙な色にしてみたり―まあいわゆるあれだ、常識を打ち破る的な?こうして口にするのはなんだかこっ恥かしいような、そういう風潮があったわけね、60年代、70年代…で、まあ、びっくりするのは、いまだにロックってそういう態度で臨まなければならないなんて、そういうスピリットで生きている方たくさんいらっしゃるっていう、酒呑むとすぐイェーイとかいう日本人ね、「型にハマった生きかたなんてまっぴらだぜ」みたいなことを平気で言う…じゃあもういますぐ首でもくくりなさいよアンタ、もうズッポシ型にハマっちまってるよって、まあそんなこと言ってもしかたないんだけどね、カレの言う型ってのはあくまで、社会とかそういう、一般的な枠組みのことであって、そこにさえ入っていなければそれでいいっていう、その程度の認識であってね?枠から外れて別の枠にハマるだけならもう普通に生きてればっていう話でね(笑)まあほら、根本的に勘違いしてるのはアンチズムを正解だと思ってるところなのよ、早い話…アンチズムじゃないんだよね、カウンターカルチャーなのよ、ロックとか、小説とか―その他のあらゆる表現ってもんはね?(ゲイジュツなんて言わないの、ワタシ)つまりね、どうして「セックス」「ドラッグ」だったのかっていうと、その時代はそんなこと大っぴらに語るの如何なものか、っていう時代だったわけね、歌なんかもね、色恋沙汰だけ歌って若い子がきゃあきゃあ言ってりゃそれで良いっていう、そういう文化だったわけよ、なんて言うの、「行儀良く真面目な」社会ってもんがキッチリとあった時代なのよね、だからこそそういうスタンスに意味があったわけ―で、この現代社会はどうなのよっていうと、もうなんてぇの、弛み切ってしまってるわけ、あらゆるお題目が形骸化して潰れた映画館のポスターみたいに色褪せて剥がれかけてボロボロになってる、それでもみんなそれがいつか上映されるんじゃないかってどっかで考えてる―そんな有様でしょ、社会的に「あーなんかチョーダリィー」みたいなこと言ってる時代に、「この街から抜け出すんだぜ」みたいなこと言ったってしゃあねえだろみたいなね(笑)そういや泉谷しげるが昔言ってたわ、「これからのロックは徒労を歌わなきゃいけないんじゃないか」ってね、それもまた一理あるっちゃああるんだよねぇ、でも、それだけが正解じゃないんだけどね…そういう時代の空気みたいなもんはね、あの内田裕也ですら理解してるよね、「ちゃんと並んで入りましたよ、それがロックンロールだもん」って言ってたの、何年か前に―これ、字面だけ見るとアホみたいだけど、ああ、この人もやっぱりそういうの感じ取ってるんだなぁって、おれちょっと感心しちゃったよね、なんか立ち位置的には初代ダイゴみたいな人だけどね…内田裕也とあと、ダイヤモンドユカイね、あの人どうしてあんなになっちまったんだろう…まあそんなことはいいとしてね…「なにがいまロックなのか」みたいなとこもあるよね、あのTOKIOだって鉄腕ダッシュじゃロック・バンドだって言ってるからね、まあスキャンダルだけはイッチョマエにあったけど…ロックって単純に音楽ジャンルのひとつになっちゃってるでしょ、その言葉にはもうなんにもないんだよね、じゃあどうなのか、これね、非常に重要な部分なんだけど、カウンターカルチャーっていうのは日本国内にもちゃんとあるんだよ、あちこちに存在しているの、だけどね、そういうものは流通しないんだよね―無味乾燥な、ただスタイルがバンドだっていうだけの、そういうもんじゃないとテレビで流れないの、ざっくり言えば…だからね、もしかしたらいまテレビで流れてる音楽でカウンター的な色合いがあるとすれば、もしかしたらサザンオールスターズとか星野源とか、あと野生爆弾くっきーとか、そういう枠くらいなんじゃないのかなぁ、佐野元春はずいぶん後ろに下がってしまったしね…コミックとか、小説とか、そういう部分でもそうだよね、住み分けがキッチリし過ぎている、広がりも縮まりもしない、そして、その枠の中でならすっげえ上手に出来るけど、一歩外に出ると何も出来ない、みたいな、そんなのがほとんどだよね―おれは本来、あらゆるカルチャーはカウンターであるべきだと思うんだけど―カウンターにならざるを得ない、って言った方が良いのかな、でもそういう言い方って、あんまりみんなピンと来ないみたい、まあ来ても来なくても、どうでもいいんだけど、実際のトコロ…自分になにかしらの影響力があるわけでもないしね?誤解して欲しくないのは、「過激であれ」ってことじゃないのよ、要はさ、作品主体じゃなくて、オマエ主体であれっていうことなんだよね、オマエ自身の鼓動を織り交ぜて差し出して、それが誰かがオッって思うようなものになれば最高だよね、っていう―そういう話なのよ、嫌いだ駄目だ嫌だ認めない、って、ガキみたいに連呼するのは誰にでも出来ることだからね?ひとつの枠を外れるんなら、その理由になるようなものを差し出してみせればいいんじゃねえのっていう、それだけのことなのよ…


自由詩 be here now Copyright ホロウ・シカエルボク 2018-06-28 00:57:44
notebook Home 戻る  過去 未来