ムーランルージュのふたり
そらの珊瑚

 パリ、モンマルトルの享楽街の中でも、ひときわ輝く大きな劇場があった。
 名を『ムーランルージュ』という。

 彼らはそこで活躍する芸人だった。
「ねえジャン、あたしたちがコンビを組んでもう何年になるかしら?」
「五年、いや六年くらいじゃないか?」
「月日は知らないうちに経ってしまうものね。目尻のこのしわを見て。ああ、このままじゃあたし、あっという間におばあちゃんよ」
 そう言ってマリアはため息をついた。彼女が手にしていた小さな手鏡がうっすら曇る。ジャンはマリアに寄り添い、肩を抱く。
「鏡なんて見るなよ。キミは人形。永遠に年をとらない」
「嫌な人。それはお芝居の中だけよ」
「ノン。鏡に映るものだけが真実とは限らない。舞台の上のキミもまた真実。虚構という真実をボクらは生きていくんだ。喜劇という名の真実をね」
 ジャンとマリアが演じる喜劇は、ジャンが扮するモテない男と、マリアが扮する人形のお話だった。筋書は、男が恋の悩みを人形に相談し、そのアドバイス通りに好きな女にアプローチするのだが、ことごとく失敗する。それはそのはず、人形は毎回わざと女に嫌われるようなアドバイスをした。くだらないドタバタコメディだったが、お決まりの結末と分かっていても観客は笑った。
「あたしもうすぐ三十歳よ。そのうち、おしろいを塗りたくってもごまかせなくなる」
「心配無用。劇場の照明係に倍のライティングを頼んどくから。マリア、キミは最高のコメディエンヌだ」
 馬鹿じゃないかしら、とマリアはジャンを睨んだ。そんなに強烈なライトを当てられたら、暑くておしろいは溶けてしまう。汗まみれで、まだらになったあたしの顔を見て観客はぞっとするに違いない。いや、それはそれで笑うだろうか。失笑って奴だ。それでもいいか。笑われれば笑われるほど、あたしたちの給料は増える。
「ところで、あなたの恋人は元気?」
 お芝居の中の男と違い、現実のジャンは案外モテる男だった。しかしその恋はいつも長続きしなかった。
「ミレーヌの事かい? あいつとはとっくに別れた。他に好きな男が出来たんだとさ」ジャンは首をすくめた。
 マリアは心の中でほくそえんだ。もちろん表情には出さない。お芝居の人形と同じように。
「ふうん。そうなの」彼女はいかにも無関心を装う。
 人形が男の恋を邪魔したように、毎回マリアもジャンの恋を邪魔した。ジャンの彼女に多額のお金を渡し別れるようにせまるのだ。今までの彼女の誰もが、恋と金を天秤にかけ、ジャンの元を去っていった。
 だけど世の中、ろくでもない女ばかりではないだろう。いつか金より恋を取る、そんな女が現れるかもしれない。
 そしてジャンは幸せを手に入れる。
 その日が来るのが怖い。ジャンの事が好きだから? そうかもしれないし、ただの独占欲かもしれない。
「ねえジャン、人形が男の邪魔ばかりするのは彼の事が好きだから?」
「どうかな」
 お芝居の脚本はジャンが書いていた。
「そうだとして、いつか人形の恋が成就する日は来るの?」
「さあ。でもそうなったらボクらは解散しなくちゃならないよ。お話はジ・エンド。観客は他人の不幸を笑いたいんだ。他人の不幸は極上のラム酒の味。幸せになった二人なんか誰も見に来ないよ」
「そうね、それじゃ困るわね。でもね、時々想像するの。恋が実ったら人形はどんな顔をするんだろうって」
「キミはどう思う?」
「もちろん笑うわ。今まで人形だったから笑った事なんか一度もなかったけど。笑うのよ。そして人間の女に戻るの」
 そうなったら、あたしはもう劇場の支配人となんか寝ないわ。支配人いわくあたしたちは落ち目の芸人らしい。俺と寝るなら劇場に出してやるですって。そんなの簡単だった。人形になればいいだけの事。もちろんジャンは知らないけれど。
「そんな日が来てほしいのかい、マリア」
「来てほしいような、来てほしくないような」
「どっちなんだい?」
 そんなの決められないわ、でもとりあえず今夜の準備を始めよう、とマリアは思った。

 マリアは刷毛を手に取る。
 それは赤栗鼠の毛で作られた刷毛。柔らかく肌に優しい。ジャンからのプレゼントだった。
 刷毛のにおいをかぐと、かすかに森のにおいがする。たぶんまだこの刷毛は、かすかに息をしている。でも哀れな栗鼠のこの分身は、もうふるさとには還れない。
 高価なものだということは分かる。
 ジャンの気遣いも分かる。
 でもちっとも嬉しくない。あたしが死んだあと、刷毛は骨董市で売られ、生き永らえる。そして、あたしの身体はきれいに滅んで、だけどこの想いはいったいどこへ行くのか。
 最高級の刷毛よりも、道端で売っている安い花の方がどれだけ嬉しかっただろう。それが明日には枯れる花であったとしても。いや、枯れてしまうからこそ。
 やはり私はジャンにとって女ではない。喜劇を編むための相棒に過ぎないのだとマリアは悟った。

 鏡台の前に座ったマリアは、水おしろいを刷毛にのせ顔に塗る。ひんやりする。細胞が閉じられていくようだ。
 ――コメディを演じるということは、人間としての熱を下げなければ出来ない因果な商売だわ。
 マリアは明るい鏡に映る真白い肌のもう一人の自分を見つめた。
 


散文(批評随筆小説等) ムーランルージュのふたり Copyright そらの珊瑚 2018-06-27 10:50:38縦
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