気の遠くなりかたについて(山茶花オクリ讃2)
渡邉建志

詩から遠く離れて、みなもすなる生活というものをしてみれば、日本語は予測可能なものになっていくし、なって行かざるを得なかった。予測不能な山茶花オクリさんの詩を僕は愛し、愛しながら敬愛し、敬愛しながら敬遠し、敬遠していたら遠くなってしまった。というのは嘘で、最初からオクリさんの日本語はとんでもなく遠くにあった。遠すぎて気を失うほど。気の遠いことと気が違うことは、遠いようで近いようで、近いようで違いがある。詩人はたぶん気は違っておらず、読者である僕が勝手に気が遠くなるだけだったようだ。僕は畏敬の念を持つだけで、それこそ山のようで、そこに山があるからおののくのであって、山はただただ僕のちっぽけな理解をはねのける壁のようで、でもはねのけてすらいなくてただひたすらに存在で、存在として存在していた。分からないものに対して僕らは次のどちらかの反応を示すだろう。僕らの生活とかに関わらないものとして無視するか、分からないがあまりの存在感におののくか。山茶花オクリさんの詩の中に、僕はもう一人の少年の声を聞き、想像も絶するような視体験をしたに違いないこの少年が、それを日本語に翻訳することなく体験のまま日本語を存在させていることにおののかざるを得ない。みなもすなる生活のための日本語体系からみて綻びが生じているその裂け目にこそ、少年の視体験への入り口が開いている。

そこにはひょっとするとインターネットの生々しさのようなものがあることもあるのではないか、かの「ノイズ」
http://www.rondz.com/poem/poet/25/pslg24224.html#24224
が二十年近い時を経てまだインターネット空間にあることの尊さ(および恍惚の主であるやかたさんの偉大さ)と思います。詩人が異世界を覗いている状態で指を動かした跡が痕が生々しくそこにあると言うことは、恐らくは、トランスしている巫女が踊るのを氷漬けにして永遠化したようなものだと思うのです。

「キリギリス」
http://www.rondz.com/poem/poets/23/pslg22315.html#22315
(以下の私の駄文より先に読んでください。願わくばそのままパソコンを閉じていただければ)




「ノイズ」同様の右端揃え型の形をしており、目に美しいのですが、この形に整形するのだという意志から生まれる何か、怖いクレバスのようなものが生まれ、僕たちはそこに足を取られて落ちているうちに詩人の視野を覗いてしまうのかも知れません。

冬支度が始まろうとしている。ならば僕たちは手荷物を寄せ集め、高いところ
へ住みに行こう。雪が降る寒い四合目から、雪が競る山頂へ。僕たちはいまに
だれにも必要とされなくなる。雪掻きさえも頼まれようものか。雪のないとこ
ろへ行くのだ。

ここで切るのが辛いのですが(なのでぜひいちど全文通しで読んでほしい)。フレーズの繋がる強さが本当に強い。のっけからすごい。「冬支度が始まろうとしている。ならば」が強い。「。ならば」!この冒頭の短さに対してある程度の分量の背景を要請する「ならば」がすぐに来てならばの後ろに読点もなしに帰結を述べる、速い!速いし強い。強い上に、論理的帰結にすらなってない。ならばと言い自信を持って意味のわからないことが断言される。強い。冬支度が始まるのになぜ高いところへ行こうと言うのか。それは、「雪のないところへ行くのだ」、というためのようである。「雪が競る山頂へ。」と言った舌も乾いていない。雪はあるのか。ないのか。・・・・・・・・・・・・その二重性は詩の最後まで貫いている。認識と事実が相反している様子は分かる。問題は雪があることが、認識なのか事実なのかということだ。事実だとしたら雪はないと認識しているのだろう。「雪が競る」は自動口述された可能性がある。認識だとしたら既に気が遠くなっている。

雪はなにかと労働を促す。路傍の気象予報士がじつに羨ましい
のは、彼の雪にまつわる贅言のすべてが、労働と看做されているからだ。彼は
僕たちが彼の口に何ガロンもの雪を押し込めようとすることにも甘んじるだろ
う。僕たちにはせいぜい数ガロンが限界である。手が赤らみ、いやだなあとい
う顔をして雪を抛るのだ。僕たちが行う山登りがいつのまにかお遊戯というこ
とになっていたとしてもおかしくはない。すぐに僕たちは滞るだろう。滞って
なおも肩だけを怒らせて、首から上を息をなるべく長く吐くことで燃やす。

繰り返される「雪」と「僕たち」。リレーして行くことにより自動化を走らせているように。自動化が始まれば世界が回転して想像を超えて行く。この行為自体が贅言であろう。雪を彼の口に押し込むことも、明らかに必要とされていない情報「僕らの口に入る雪は数ガロンが限界」も「いやだなあ」(読点なし)も現実世界から連続的に繋がった意味のわからないところにある。滞るだろう。滞って。意味のないバケツリレーのあとに、リレーされない意味のなさが挿入されもする。

地方の困難がここにある。

どこにあるというのか。地方の困難が雪にあるのは常識的に正しい言説であるが、常識的に正しい言説だからといって正しい推論の結果だとは限らない。そしてまた雪に戻る。雪を繰り返す。

雪は、低反発性に富む。

これもまた単独で正しそうだが推論の中の位置を見失っている。

とすれば間違いなくぶつかる
手前で躱す。重心を右脚に乗せたなら浮かせた左脚の膝の関節の捻り方がたゆ
まぬ前進にとって肝要だろう。膝の関節は左右の急激な振幅に、せいぜい半円
を描くよりちいさな角度をやりくりする程度までにしか対応できない。痛める
としたら筋がある。筋を大事にするなら、肉を撓わせている左腿を引き寄せれ
ば右脚で地面を蹴ろうとしていた調子がわずかにずれても、二の足、三の足が
踏まれるはずだ。

今度はある程度まとまった論理の流れがある。意識が正常に戻ったようにも思える。

このとき安堵を訴えるべきではない。ましてや雪に続々と不
意を撃たれるとしても、チッなどと歯と舌で音を立てない。それで呼吸が整え
られたとしても、どうにかなる相手と思うな。全力で、昏倒し、全力で、再抵
抗する。雪には雪の戦法がある。

「雪には雪の戦法がある。」!なんだかかっこいい!とにかく僕たちは雪と戦っているし、雪は何者かと戦っていて、そこには戦法がある。あるいは雪と戦うための僕らの戦法か?「どうにかなる相手と思うな。」突然の禁止文型。これもかっこいい。
ここから以降は最後までは、フレージストとして言わせていただければ、これはもう最高のフレーズだと思う。愛している。

雪の一歩先を読むには雪の真似をする。僕た
ちは単独化し続ける。きょろきょろしていると首を痛めるだろう。首の筋を。
反応が鈍ければどんな部位においても筋を痛めることになる。こちらの筋が勝
敗の鍵を握り、仲間は目減りするか、顔が変わるかする。もはや顔での結びつ
きに期待せず、熱い蛤のみそ汁を欲するよりも早く零下の疾風とともに吹きつ
ける雪を縦一列になって避け切らなくては、であるからには熱い蛤のみそ汁が
無意識下で死守されないことには、パーティの全滅も近い。

「首の筋を。」の倒置、あるいは動詞の省略から、突然に狂気が見え始める。あるいは(、こちらだろう)、死に向かって気が遠くなり始めている。世界は歪みクレバスが口を開ける。危ない!まず筋、にたいする執着をみよう。「こちらの筋が勝利の鍵を握り」!首の筋が!なぜ首の筋が勝利の鍵を握るかというと、筋を痛めたら顔が変わる(!)そうである。すごい。仲間が「目減り」するのもすごいが、顔が変わるのは流石にすごい。それを顔の結びつきに期待せず、と受けたのもすごい。顔の結びつき!それに期待できないために現れる次なるキーワードは「蛤のみそ汁」である。蛤のみそ汁!僕たちは冬支度を避けて雪のない場所を求め雪の競る山頂を目指し、みすみす顔が変わり、顔の結びつきに期待できないので縦一列になって雪を避け蛤のみそ汁を死守しなければパーティの全滅(!)が近い!この激しい論理の大飛躍をみよ!零下の疾風に耐えるぐらいならば低地で雪掻きする労を厭わなければよかったのに!

そして、最後がすごい。
あまりにも、美しい。

僕たちには一つの
信念が似合ってくる。山頂に着いたら、キャンプファイアを囲んで、一家団欒
に憩うのだ。そこに薪がなくてもかまわない。そこにコンロが、食器がなくて
もかまわない。山頂に着いたら、みんなで鍋の前に並んで、蛤のみそ汁の匂い
で充ちた湯気に鼻を温めよう。そこに鍋がなくてもかまわない。そこに蛤が、
みそが、湯がなくてもかまわない。そこにだれがいなくてもかまわない。僕た
ちの内の僕がいなくても。ふる雪に濡れて凍えなくても。この冬がなくても。

意識が溶けている。もはや。事実と認識の二重性の中で、確信が持てなかったはずの僕たちが信念を覚えたからには死が近い。「そこに薪がなくてもかまわない。」の怖さがすごい。それ以上に「ても」の音の美しさはこれはなんだろう。命がけの仮定逆接。コンロも、食器すらも、なく「ても」かまわない。どんどん前提が、仮定が崩れて行く!カードを裏返して行くように。そして前提のなかの大前提が、最後3つ覆される。
「僕たちの内の僕がいなくても。ふる雪に濡れて凍えなくても。この冬がなくても。」
怖い怖い、美しい美しい。僕はいなかったかもしれない。そもそも雪はやっぱりなかったのかもしれない。冒頭の冬支度すらも。
これは、怖さを超えて美しい。こんなに、ても、を繰り返すことが美しいだなんて。
僕は一生この最後の3つの「も」の美しさを忘れることはないと思う。




+++

街を歩いていて急に、数年ぶりに、この「も、も、も」が心の中から聞こえてきて。
急いでそこに通りかかった渋谷のカフェミヤマ(地下一階)に潜り、この駄文をアイフォンで二時間打ったのでした。

前回、讃1、と銘打っておきながら、讃2を書いていなかったことも、心残りであったので、七年越しに置いていきます。

あと題名。「アリとキリギリス」のキリギリスの最期を壮大なスケールで再創造したということにさっき気が付いて、(OQさんの天才と自分の腑抜け具合に)笑ってしまいました。

前回:
https://po-m.com/forum/showdoc.php?did=229055


散文(批評随筆小説等) 気の遠くなりかたについて(山茶花オクリ讃2) Copyright 渡邉建志 2018-06-09 22:23:50
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