詩論
黒髪

 詩に目的はない。詩に価値はある。言葉の自由な使い方や、美しい使い方のお手本となることができる。それは、実践の中から生まれるだろう。つまり、胡乱な態度で書かれていれば、それなりにしかならないのである。程度が知れる。例えば意図とはどうであるか。こき下ろすことを前提として書かれた言葉は、美しいという価値を持つことはない。
 長い言葉を縮約することが、詩の作り方の一つとなるだろう。長いフレーズを、言い換えること、長いフレーズから連想すること、である。意味は自由だ。言葉のフォルムは意味を伝えることと、表裏の関係にあるように思う。フォルムはそのためにあり、フォルム自体を楽しむ詩というものは、試みられてはいるが、それほど沢山の可能性は秘められていないであろう。
 自由は、長いよりは、短いところに生まれる。逆では、と思われるかもしれないが、意味の少ない言葉を長くつなげることに大きな意味はなく、言葉の本来である伝達が、意味を持つ。独り言でさえ、意味不明にはならない。だから、詩は伝達の側面を、まだ大きく持っている。会話やメールが、多く交わされている現在に置いて、詩もまたその伝達行為の一部であるだろう。
 一方で、詩を芸術と言おう。芸術であり、伝達のみのものではない。そのような素晴らしく美しい芸術は、人の鑑賞に堪えうるものだ。まずは、自己自身にとって言葉が伝達すること、詩の本来はそういったところを(私の冒頭の文と矛盾するが)目的としていたのかもしれない。まねることから覚えて行った言葉は、子供の未発達な自由な精神があるから、可能性が未来に向けて持たれている。だが、行きつくところにしか行きつかない。言葉によりかかる詩は、その作者が本来いうべきことを、言われないでいるものだ。詩は作者のものであり、詩は、文化の一つである。つまりそれは行為である。詩がかかれる。誰もの、足跡が残されてある。誰かが来たのだ。それを、読み取るのだ。そして、勇気と自信を取り戻そう。言葉は美しく、書かれるべき何万の詩篇が、書かれるのを待っている。 いや、言葉は待ってさえいない。いつも自分と共にある。形になっていない言葉は、未来の方を向いており、上達に心をどきどきさせる。書かれていない詩を書こうとする意思は、自分の自信と共にあるだろう。おそらく、すべての詩人は、生きるために書くのではなく、書くために生きているのだ。こういう見方は、一見して思われるほどに陳腐なものではないだろうと、私は思っている。取りつかれている程度の違いなのだ、詩=命という妄想へ。


散文(批評随筆小説等) 詩論 Copyright 黒髪 2018-05-27 11:14:34
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