老人
ただのみきや

鶺鴒はすばしこく歩き雲雀は高く囀っている
生憎の曇りだが風は早足
日差しが覗けば芝桜も蜜を噴くだろう
虫たちが酔っ払って騒ぎ出すほどに
脇目もふらず歩く老人の後を付ける
サメの背びれだけが光を返さない黒で
凡そ全てが銀のプランクトンを纏っていた
老人は鯨よりも大きなショッピングセンターに飲みこまれ
原色の野菜の森で少女の腎臓のようなトマトを指で突く
週に一度の儀式を通して指先から全身に流れ込む力がある
ささやかな背徳が張りの無い皮膚に泡立つころ
数日続いているニュースについて独自の見解を述べたが
キャベツも白菜も解脱していて
仄暗い生の青さを浮き立たせながら冷たい霧に紛れていた
財布の中身とカレンダーが歯車のように噛み合って
老人は絡繰り人形のように月に一度あるいは週に一度
決まった場所に出かけほぼ決まったものを買う
あらゆるものが短くあらゆるものが長かった
――蝶が飛び回るいつも同じ蝶が
こんな店の中でもおれの目を引き付けて見えない方へ――
蝶は自分の頭の中から現れる 
そう老人は見当をつけていた
レジを通る時は一番きれいな若い娘を探す
どんなに混んでいてもじっくりと顔と手を見た
そうして心の中でシを読んでみる
だが釣り銭を受け取る時にはいつも言切れて我に返った
右手の小指と薬指が思い通りに動かない
若い頃からそうだった
つまむという意思に対する指先のレジスタンス
腹立たしくも為す術なく
老人は宛名も切手もない茶封筒になって蝶を追った
天気は相変わらず斑模様
近くの小学校で運動会をやっているのか
声援や音楽が時間差で風に揺れる風呂敷みたいに被さった
幽霊たちがお遊戯しながら耳の奥を潜り抜ける
玩具と御菓子 汗と埃
雲雀の声が随分高く……と思った途端 沈黙
予期せぬ空白に老人は栗鼠のように静止した
すぐ傍を無言で通り抜ける赤い自転車
木々ほど受け身ではないが
詩人ほど無節操でもない
騒めいても言の葉ひとつ散らすことはしなかった
十二時には帰宅してNHKのニュースをラジオで聞く
北朝鮮とシリアと国会の話題が好きだった
今日は外れ
テロとテロリストをライトに憎んではいたが
――世の中に一人もテロリストがいなければ
おれがテロを起こしただろう――そう考えるのが常だった
鯖のパウチを小皿に開けてレンジで温める
差し歯が増えると骨のない魚がいい
価格と手軽さが味よりも優先される
ニュースがいつも通りのつまらない結末を迎えると
すぐ隣には若いカップルのテロリスト
低音だけの音楽が馬鹿げたジャムの壜を落下させた
仕掛けてみようか
近所の犬をボウガンで射貫いたように
風船の割れる音もないまま
原色のイマジネーションが迸り壁や床を染めた
ああロックンロール!
67年はドアーズとベルベットアンダーグラウンド
ビートルズはカソリックの聖人並みだった
だが風は澄んだまま
スギナの森深くダンゴムシが触覚を振っている
老人は髭を撫でながら手を振って応えた
全知ではないが知るべきことは全て知っている
小川に手を浸すように時間の流れを感じている
だけど風上に向かって素っ裸で走り出すには
敵が老練すぎたし
世界はもう瘦せっぽっちの鶏にしか見えなかった
家族は何処へ行ってしまったのだろう
なんて惚けた一人芝居を楽しんでいる
頭の中が辺りへ溶け出しているのが楽しかった
光のシーツを被って足をばたつかせる子どもだった
蝶が寝室の暗がりへ誘った
女の唇がロウソクの炎を吸い取るように
意識の一角が崩れ去る
寒天みたいな夏が来る前に
脳の表に刺繍を入れておこう
大きな声で歌い始めると
箪笥が笑いながら倒れて来た




              《老人:2018年5月26日》











自由詩 老人 Copyright ただのみきや 2018-05-26 21:40:52
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