「天動説の子ども」 ロボウティー
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この詩を読んで感じる苛立ちはなんだろうかと考えた。初めは何故なのかよくわからず、親子関係を扱うナイーヴさゆえなのかなどとも考えたのだが、どうやらそうではなく、たんに技術の問題であるらしい。
ひとつには、行の長さに差があることが気にかかってしまう。はじめのほうに長い行がまとまってあるが、後半にはない。また行開けの頻度が後半にいくにつれ短くなる。このアンバランスが意図的に配されたものだと思える効果も感じられない。おそらくは作者の気分、作者にとっては必然かもしれない「なりゆき」に任された行運びであって、それがストレスをもたらす。言葉運びのリズムがまったくつかめず、流れに乗っていくことも難しい。
いまひとつ、
それはまったく自然なことです
それはとても不自然なことです
それはまったく不自然なことです
それはまるで自然なことです
それはまるで自然なことです
という、定型フレーズを意識的に繰り返すにもかかわらず、その挿入の仕方に規則性がなく、かといって不規則がもたらす効果もないため、むしろ小手先の技法に感じられてもどかしい。
上記二点を検討し書き直せば、大幅に洗練されてくるだろうと思われる。内容を重んじていると推測しうる作品であっても、言葉のリズムを軽視しているならば読むことすら困難だし、なくてもいい韻を踏めば稚拙というより安直に陥ってしまうのだということを、作者に強く意識しておいてほしい。
少し内容に接する部分の問題として、モチーフの扱い、そのつながりの悪さについても指摘しておく。
天動説/地動説 魚 箱船 骨 肺呼吸 走る/泳ぐ 自然/不自然
いずれもいささかずつ関連していることは読みとれる。だが有機的にはつながっていない。これはリズムの問題とも関わっていて、よいリズムで読めば、およそつながりそうもないモチーフが理屈抜きにちりばめられた場所で光ってくるものだ。この作品においてのつながりの悪さは違和感を狙ってのこととも思えないので、たんに運び方がよくないだけなのだと言えるだろう。とりあえず、なぜ天動説でなければならないのか、それが理屈でなくするりと得心できるようにしてほしい。これはいい言葉なのである。
さて、こうまで苦言を呈してから言うのもなんだが、この作品は悪い作品ではありえない。なにしろ題材が特別で、場面がいい。「母の死」を扱うとき、真摯にならざるをえないのは当然であろうが、その真摯さのみが伝わってくる。
だが、作品を書く、「母の死」を作品にし他人の目に晒す、という行為に際し、持つべき真摯さはもっと冷厳なものとならねば、題材に見合う作品は生まれてこないのではなかろうか。読者の同情や共感の涙を誘えばいいというものではないだろう。それは「母の死」を、自らのうちで意味づける行為なのだ。作品を書くことによって、「母の死」は作者の中に、そのようなものとして構築される。もっと言うならば、作品化しなければその女性の死は彼にとって「母の死」とならない。「母の死」を書くのに5年10年かかるのは、むしろ当たり前であるようにも思う。
この作者は発表後の改訂をいとわないのであるから、ぜひこれからも推敲を繰り返して継続的に改訂し、読ませてほしいと思う。言葉の配し方、行の開き、長さ、韻。推敲し推敲し推敲し、大幅な書き直しを加え、けっきょく一番最初の形にもどったり、破れを破れとして残さざるをえなかったり、というような。そのように変化し続ける作品があってもいいではないか。
われわれにとって「母の死」は、完成することなどないはずなのだから。
2005.3.20