暴力
葉leaf


試されているのはいったいどの暁だろうか。抉りとられたままの世界の軋む音が聴こえる。根拠なく発生し続ける存在は、ただ相対的に存在するだけで暴力として発芽する。見失う片目の行く先には過去の清冽な流れが伴い、希望を口にすることだけが宗教的に許されている。人は熱帯雨林を生き抜くために、社会という暴力の坩堝のかたわれとして常に意志を巻き込んでいく。斧を振り下ろすとき、どの一振りに最も苦味を込めるか、どの一振りに最も空間を焼き込むか、振り下ろす者は何も考えていない。人生と人生とがつながっている節目ごとに切り立つ感情の砂があり、誰のものでもない憎しみが刻まれている。この世の果てに何もない原っぱがあるという、そんな希望だけを美酒として飲む。せめて届かない言葉を、射抜かないまなざしを、矛盾に満ちた論理を。暴力とは一杯のコーヒーに過ぎない。そこから肯定も否定も生み出し、他の暴力たちと複雑な文様をかたどっていくもの。暗闇から徐々に朝の光が射してくるこの見慣れた過程の最中に、奪われた名誉をいくつも祀っていく。日本はここに存在する、そこにもあそこにも遍在する、この日本を形作っている暴力に人はみな連なっている。怒鳴る声や執拗な叱責が植物を窒息させ農業を衰退させるのをしばしば目撃した。エッジに立たされて敗北し続ける人を、共生のエッジへと、生命のエッジへと、どこまでも包摂していきたい。暴力はすべて愛という高次の暴力へと高めていきたい、と手帳の末尾には記されていた。





自由詩 暴力 Copyright 葉leaf 2018-03-04 06:59:01
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