ものを「紙」に書くという大切さ
あおい満月



書きたいときに、いつでも気軽に手軽に詩やエッセイや書評、短編小説などが書けてしまうのが、このスマートフォンないしアイホンだろう。私も仕事のかたわら、ほんの少しでも(ほとんど昼間だが)時間を見つけてはこのスマートフォンに向かって詩やエッセイを書いている。書いていると、楽しい。一文字入れただけで色々な言葉が出てくる。だから短いものなら、一気に3、4篇は書けてしまう。しかし、最近、この気軽さというか、手軽さにある種の疑問を抱いている。詩などを書いている人なら、きっと詩誌の投稿欄や、賞をめざして書いている人も大勢いるだろう。そのなかには、ノートに書く人や、わたしのようにスマートフォンで書くという人もいるだろう。スマートフォンは手軽で、非常に書き易くてよい面があるが、この気軽さが「問題」なのかもしれないと最近思うのである。
一篇の詩をものの15分たらずで書きあげ、のちにPCに転記し、SNSに発表する。「イイネ」などの共感を得て満足する。それは悪いことではない。しかし、あまりにも手軽過ぎて、「詩を書く」という本来の「産みの苦しみ」、たとえば何度も推敲したりする気持ちが
この「手軽さ」のせいで消えてしまうのではないかと最近不安である。そこで私は、ノートに書いてみることを再開した。ノートは当然ながら「紙」である。だからスマートフォンのように一文字入力しただけで色々な言葉が出てくるなんてことはない。自分の頭が勝負である。ノートに向かってみる。さすがにすぐには「書け」ない。苦しさのあまり、髪の毛をむしりたいような気持になる。しかし、これが本来の書くことについての「産みの苦しみ」なのであろう。これを味あわなくては本当の「詩」は生まれない。詩の公募には、
中には原稿用紙のみの募集のものもある。そこでは、表現力、字のきれいさなども求められる。こんなときに私は思う。もう少し幼少の時から、書道やペン習字などを習っていればよかったと。私の書く文字にはひどいクセがある。右上がりだし、バランスが悪い。だから、仕事で得意先への宛名を書くときなど、字がまがってしまうので、定規を必ず使っている。それでも、文字の一つ一つの気ままなバランスの悪さは直りきらない。そこで私は、今の私の会社が行っている通信講座で文字と文章能力を磨く講座を受講することに決めた。費用は8千円強。受講受付期間は後期は平成29年9月から。文字を紙に書くことはなかなか体力がいる。ましてやエッセイのような長文は。仕事や休みの日のかたわら、どのようにして時間をつくって勉強できるかである。きちんとできないと、やれないのと同じだから、そこは大人らしく、自分に言い訳をせずにやるようにする。いずれにせよ、IT化が進む昨今、ノートにきちんと「書く」ということは非常に大切である。私は短大時代、「文章能力検定」の3級を受けたがものの見事に落ちた。それでも国文科のしゅsっしんであり、レポート提出の時は必至で原稿用紙に向かった。その苦労が必ずどこかで活きるはずである。あとは大事なのは「書く」という根気の強さである。その強さを磨くためにも、私は「紙に書く」ということをもう一度一から始める。


散文(批評随筆小説等) ものを「紙」に書くという大切さ Copyright あおい満月 2017-08-12 02:28:48
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