首吊りの森
田中修子

 赤黒い熱い塊が喉のおくでガラガラガラ音を立てている。からまってまるまった舌で窒息しそうだ。舌が体に飲み込まれようとしている私は、必死で舌をン、と指でつまんでまっすぐにしてよだれが垂れる。幾千幾万どこまでも木と揺れている人が続く、うすぐらい首吊りの森でさまよっている。

 首吊りの森にすでに吊られた人々は黒い影となってゆらゆらと風に吹かれておりあんまりに心地良さそうで、誘われるからできるだけ見ないようにしていた。もりあがる根に足をとられ、舌をひっぱりながら歩いている。この森を出よう。いつになるかは分からないが、私は絶対に出なければいけない。ほら、蝶の青いあかりがみえる。ずっとずっと見えている。

 首吊りの森に入るまえは砂漠にいた。砂と岩だけの砂漠。
 あっちへ行こう。きっとあっちこそ、今度こそ正しい方向だ。どんなにいっしょうけんめいに走ってもかならず転んで大怪我をして、自分がどこから来たのかも、どこへ行こうとしていたのかも、どれだけ時間がたったのかもわからない、ただ、すべてがむだだったことだけが分かった。涙も流すはしからひからびて、やがてなにも感じなくなった。骸骨のようになっていく体をただ引きずって歩いていた。

 そんなとき青い蝶がきまぐれにフラリとやってきたのだ。水のあるところ、緑のあるところがあるのだろうか。強い風に足跡はさらわれて来た方向は分からないし、蝶を追いかけてもゆく方向も分からない。ただ、ゆっくりと追いかけているうちに転ばなくなって、だからなのか骸骨だった体もいつのまにか肉と脂肪を取り戻していた。

 青い蝶がなにを考えているか分からないが、首吊りの森につれこまれ、死者たちの寝息を感じても、悪い感じはしなかった。そこで私は眠りを取り戻した。どれほど寝たことだろう、数百年、数千年だろうか。ときたま不安になって薄目をあけると、蝶の青いあかりはホワリとそこにいて、また、ねむった。死者たちの揺れはゆりかご。

 それなのに息苦しくて目が覚めたら今度は舌が飲み込まれようとしている。ン、ン、ン。
 そろそろ首吊りの森を出なければいけないという合図だろう、そうなのだろう、青い蝶、私に立ち止まることは許されないのだろう。

 グチャリ、といやな音がして、目の前にもう人ではない人が落ちてきた。
 腐ったにおいにまさっていいかおりがした。甘い、バニラの、ばらの、はっかの、海の匂いのする。

 あの子が亡くなる数日前にあげた、誕生日プレゼントの入浴剤のセットのにおいだった。けっこう高かった。ほんとうは自分が使いたかった。それでもあの子にあげたかった。
 ネットで知り合った子で、手紙や携帯電話のやりとりは何度もした。
 「私、砂漠で走ってるみたいなの。いっしょうけんめい走っても絶対に転んで大怪我をして、どこからきてどこへむかっているのかもわからないの」
「どうして私の心の中の状態を、上手に言葉にできるの?」
「魂が双子なのかな」
 一度だけ、私の法事の都合で遠方のその子に会えた。やさしいかおりにくるまれてほしかった。照れくさそうな笑顔の子で、会った二週間後に亡くなった。
 携帯電話が通じなくなって、あ、まずい、と思った。手紙の住所から104で、彼女の実家を探し当てた。お母さんがでた。
「もしかして、あのいい香りの入浴剤をくださった方ですか? ありがとう、あの子は死にました。いいえ自殺ではありません-いままでたくさんの人に迷惑をかけたけれど、さいごは自然死だったので、まだ、よかったです」
(よかったって、なにがいいんですか。自殺ではなかったことがですか。すべてを黙ったまま、自然死してくれて、それは、それは、完全な殺人ではないですか)

「よがっだ、っで、だにが、よがっだ、の!!」
 叫んでいた。赤黒い塊が喉から出た。結ばれていた舌がほどけた。

 落ちてきた人はいっしゅん内臓や骨を晒したあと、いく群れもの白い花になった。首を吊ってとまどうように揺れていた別の人々も、熟した実がぽとりと落ちるように、地面に落ちて首吊りの森のあらゆるところを覆い咲く花になった。うすぐらかった高い木々の皮はつややかな緑の苔に覆われ泣きそうに眩しく、苔からはまた燐光のように、小さな花が咲き、しげる葉の向こうに、澄んだ色の空が見えた。

 白い骨のようにひかる花花だった。青い蝶はそこにすっとなじんで溶けた。青白いやさしい光を発するその花の蜜を舐めると舌がなめらかになるのが分かった。

「私もひとごろしなの! 私がしなかったことが、きづかなかったことが、あなたをころしたの! 私のしたひとつのことが、ほかのなにかにすべてつらなっているのなら、私もあなたのことをころしたひとりなのよ! もうくるしくてくるしくて生きていかれないよ。おねがい、おねがいだから、この花の群れにくわえてよ」

 花はしずかにそよいでいて返事はない。青い蝶は白い花に溶けて眠ってしまった。
 首吊りの森は青白くひかる花花の森になった。
 私には、いまや、健康な肉体も、なめらかにしゃべることのできる舌もある。あるように、なってしまった。

 私のいまのこの体こそが、この美しい死の森を出なければならないという合図だろう、そうなのだろう、私に立ち止まることはいつだって許されることはなかった。
 「いっしょに、行こうよ」
 心臓がバクンとした。鼻か口から入った花の種が血を巡って心臓に宿ったのが分かった。痛む心臓を喜びかかえて私は歩きだす。

 この花が私の心臓をひらいて咲くときが、眠りだ。やがて芽吹きの季節が私の上に舞うだろう、そのとき咲いた花とともに見る風景は、いったいどんなものなのだろう。


散文(批評随筆小説等) 首吊りの森 Copyright 田中修子 2017-05-19 21:22:06縦
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