エリカの缶
もっぷ

 誰も知らないちいさな町の誰も知らないちいさな部屋で暮らしている女の子、エリカの許に毎年三月八日になるとミモザの花束が贈られてくるようになってどのくらいが経ったでしょう。相変わらずエリカは九歳、毎年の秋のお誕生日に九つになるのを繰り返して過ごしています、たった一人で。ですから三月八日という日付にも、もちろん贈ってくれる相手のことなどさっぱり見当もつかず、けれど度重なるうちにそのことはエリカにとって自分のお誕生日よりも大切な大事件となっていったのです。

 今日は十二月の十九日、今年の冬至はもう明後日のこととなりました。エリカの表情が徐々に明るくなっていく、その折り返し地点といえます。逆にいえば夏至は、エリカを打ちのめし、まだ初めての九つの頃にはいくどもいくどももういっそ消えてなくなってしまいたい、そして本当に本気で、うわさに聞いていた樹海行きを真剣に考えてもみたものでした。その、一番危険だった時代に耐えて冬至を越えて、エリカにたった一人のほほ笑みも珍しくはなくなった、そんなある年の早春に、突然ミモザの花束は届くようになったのです。

 花束にはカードが添えられていました。最初の年にはただ「エリカさんへ(あやしいものではありません)」とだけ、ありました。その次の年には「エリカさんへ(うけとってくださってありがとう)」その翌年は「エリカさんへ。わたしにはすこしかなしいことがありました。でも、たちなおることができました」そういうふうにすこしずつ、言葉は増えていきました。エリカはミモザを飾り終えるとまた、カードをそのちいさな手に持って、ごはんの時間も忘れるほどに眺めるのです。カードの、言葉が書かれてあるほうの反対側には、美しい絵が印刷されてあったからです。風景画でした。まったく知らない風景ばかり。(あやしいものではありません)の時には風車が印象的でした。青いような緑色のようなその中間の入り混じったどこまでもの草原に、とても優しげに描かれた風車。もともとエリカは何かしらを疑ったことがなかったので、(あやしいものではありません)をまったく信じました。お返事をと思っても、どこへかもわからない不思議な贈り物。まず、エリカはその風車のカードを、彼女にとってとても大事なものをしまっておく古いパイン材の机の一番上の引き出しにそっと仲間入りさせてみて、やがて思い返し、ちいさなキッチンへ行って、もう食べてしまった後の、けれどあまりに惹きつけられるロゴのデザインと、描かれている男の子と女の子の絵が気に入ってずっとそのまま棚に置いてあったクッキーの缶のなかに、あえてふわっと入れてみました。エリカは不思議に穏やかな心持ちを感じて、その缶を持って机にもどり、絵本の山を一つだけ床に下ろして机の上に場所をつくると、元クッキー缶を載せました。かならずこの缶はカードでいっぱいになる、エリカにはそのことがわかっていました。理由などはなくただ、何の迷いもなくそのようにわかったのです。

 眠れない夜には、普段抱きしめて一緒にお布団にもぐるアネモネという名のキリンのぬいぐるみをいったん手放してから例の、元クッキー缶を取りに机まで行き、また引き返して、アネモネと一緒にカードの缶を眺めました。身近に置くようになってその缶のロゴが、暗がりのなかで仄かにひかりを放つことを知りました。ロゴはエリカには読めない言葉で書いてあり、さらに繊細にデザインされてありましたからいよいよ不明なわけです、けれどこれは海と関係がある、そこまでをエリカは推理していました。缶に入っていたクッキーがみな、貝殻のかたちをしていたし、描かれているこども二人の着ているものが、よく水兵さんの制服で見かけるいわゆるセーラーカラーであったからです。背景には海や水とは関係のない明るいオレンジ色が使われていたのですが。そしてロゴはというと、縁取りが淡いブルーで、なかの文字はレモン色でした。アネモネと缶を眺めながら、そのままあたまをごつんと缶にぶっつけてしまっても気づかないで眠りについてしまうこともしばしばです。エリカとアネモネが夢の世界で勝手気ままに何をしていようと缶のロゴはおかまいなしに(あるいは律儀に)仄かにひかりを放ち続けて、朝のほんもののひかりに負けてしまうまではいつまでも、まるで部屋を守るにはすこしばかり頼りない、けれども灯台のようでもありました。

 さて今日は十二月の十九日、あと二日もすれば冬至です。エリカの顔の骨格は眉間にしわの寄らないたちでしたけれど、たとえるならばまさにしわを寄せる思いで二十一日を待っている九つの少女は、この日がとてもよく晴れ渡っているというのに、気持ちよく目覚めたはずの朝から徐々に時が過ぎていくにつれて心が疲れてきました、と、自分でもよくわからない弱気をどこかへ向かって隠せずに、もしかしたらあたしは手遅れの病気にかかってしまうかもしれません、そこまで決めつけて、とうとう、アネモネを抱きしめるとお布団にもどってしまいました。明るい日差しが残念そうにまったく無駄に、今日のこの日に降り注いでいます。けれどエリカを立ち直らせることはできません、結局、その日一日をエリカは何一つ口にもせず、それなのに空腹すら覚えもせずに過ごして夜となりました。

 眠れるわけもありませんからいつものように「エリカの缶」を机から持ってくると、ロゴが放つ仄かなひかりをアネモネと一緒に眺めました。次に、エリカは缶をゆすってカードたちの音を聴いてみて、まずはふたのロゴに弱々しくウィンクをしてから厳かに開けてみました。手許のランプを明るくすると、ずいぶん集まってきたいろいろの風景を一枚一枚ゆっくりと丁寧に確かめながら、その反対側の、エリカに宛てた言葉たちを、大事に、胸に刻み込むように(もういったい何度目のことでしょう)追っていきます。エリカはその言葉の何もかもをゆったりと信じきって、古い順に懐かしんでいるうちに、その日もアネモネと眠りに落ちていきました。もちろん缶のふたを閉じることだけは決して忘れずに。大切なカードを撒いてしまってまさか一枚でも失う――そんな愚かなことはできませんから。そして二人が寝静まった後にあのロゴの灯台は、見守るように、仄かなひかりを放ち続けていたのです。

 明けて二十日。エリカが倒れました。朝が来たので、いつものように起きて、自分の昨夜の横着を反省しながら「エリカの缶」を机にもどすために缶のほうへ手を伸ばしたその瞬間に、でした。アネモネはどうしてよいのかわからずに、お布団の上で転がったまま、ごくわずかしか離れていないエリカに触れることもできず、ただじっと彼女を心配そうに見ています。いつもより、誰も知らないちいさな部屋の、古いパイン材の机の上の時計の秒針はゆっくりと、ゆっくりと時を刻み、なかなか進みません。そしてここに記しておくべき重要なことがあります。「エリカの缶」のふたがエリカの許しを得ずに開いてしまったのです。思い出のカードが一枚、また一枚、時には二枚三枚とまとめて、どこかから吹き込んできた風に、どこかへと、飛ばされていってしまいました。それは実際わずか九つの少女には数えきれないほどの枚数で、それなのについに、「エリカの缶」はいつか空っぽになってしまったのです。アネモネはもどかしくてたまらないけれどどうすることもできず、かなしそうにその様子を見ていることしかすべもありません。

 やっと訪れた深夜、日付は二十一日、待ちに待った冬至です。その日、まさにその日、エリカの住んでいた誰も知らないちいさな町は、もう、どこにもありませんでした。もしかしたら、無人の灯台のある、無人の島、そのあたりが位置的にはエリカの町とほぼ同じでした。灯台は律儀にひかりを放って、この時間も仕事を続けています。とても大切な仕事です。この島の一つの不思議に、生態系としては珍しく、エリカという名の植物が群生していました。花言葉には諸説あって「孤独」というのが有名です。かつて灯台を守るために通っていた灯台守がその花言葉を知っていました。繊細なロマンティストのまだ若い青年でした。彼は灯台を守りながらまた、エリカをも、守っていたのです。そして街にもどれば待っていてくれる自分の恋人の誕生日と同じ日に、恋人の好きだというミモザの花を、このちいさな島のためにも花屋で贈り物用に整えてもらい、花の名前「エリカ」を女性の名前のようにして、なんとなくカードも添えて、ミモザは自らの手で灯台のなかに飾りつけたうえで仕事を終えると帰っていく、いつしか若くもなくなり後継者もなく、けれどもこの仕事を続けているあいだはミモザの花束を欠かすことも決してないままに、老人は島の最後の灯台守として、この日の未明にこの世を去りました。ミモザの花言葉ですが、どれも感じのよいものばかりのなかで彼が特に好んだのが「友情」だったことを、どうしても皆さんにお伝えしたいと思います。彼は九歳の夏至祭の日に両親を不慮の事故で失い、のちに家庭を持つことになるあのミモザが大好きな女性と恋に落ちるまでは、心を九つのままに成長を止め、傷つき続ける少年期を過ごしたつらい過去を抱えていたのです。おさなかった彼にその日のパンをくれたのは、どんな大人たちでもなくて、似た境遇だった彼女も含め、友人ばかりだったのです。



散文(批評随筆小説等) エリカの缶 Copyright もっぷ 2017-03-04 20:27:00縦
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