褐色の濃いあたりに
深水遊脚

 クリスマスソングを嫌いな理由について考えを巡らせている。なぜそんなことを考えるのかわからない。嫌いなものについてなど考えなければそれで済むし、実際に多くのことはそうしてやり過ごしている。でも嫌いなものであっても、考えずにはいられないものもあるのだ。油断すれば一日の大半がそれで塗り潰されてしまうものがあるのだ。それにいちいちその日の主導権を渡さないためのディフェンスには戦略がいる。嫌いな理由を考えてしまう理由は、言葉にしてみればそんなところ。もっとも理由があって思考があるわけではなく、理由のないことを決してやらないというほどに私は合理的ではないのだけれど。

 嫌いであることに間違いはない。以前はそうでもなかった。それなりに暮らし向きのいいときは聴こえてくる曲を歌っているシンガーを気にかけたりはしていた。そのシンガーの別の曲を探して聴いてみようという好奇心もあったし、そのように音楽にお金や時間をかけたり、クリスマスソングが一端を担う物欲刺激装置に、それと知りながら乗っていろいろ要らぬものを買い揃えたりしていた。どちらかといえば非モテ、コミュ障と片付けられるめんどくさい性格が災いしてクリスマスには小さな恨みこそあれ、それは数時間単位で湧いては消える物欲と同じレベルのもので、買い物の満足とともに消えていた。そういう気晴らしの仕方は、もうできない。収入は減り、大事なものに気持ちを絞ってそれだけで満たされて暮らしたいと思うのに、本当に必要でお金を出していいと思えるものがわからないのだ。今更自分探しを始めようと悠長なことはいえないし第一かけるお金がない。詩でも読もうかと思って手にした雑誌では、頑固じじい気取りの批評家があれはダメこれはダメと貶している。いいことばかり言えばいいというわけではないのはわかる。何も考えていない誉め言葉というのもあるのだ。いま街に溢れている飾りつけやイルミネーションのように。でも何も考えていない貶し言葉というのもある。

 過剰な音を避けたいときいつも入る喫茶店があった。珈琲しか出さない、ごく小さなお店だった。この時期はクリスマスツリーを飾っているのだけれど、不思議なことにこのツリーにはそれほど苛立たないのだった。飾りつけが細部まで行き届き、多すぎもせず少なすぎもせず、お店とも調和がとれていた。お店全体の雰囲気はあくまで珈琲の褐色が中心。上質な珈琲の香りがほのかに漂うけれど空気はとても清潔。聞き取ろうとしてわかるくらいの音量で流れるジャズ。すべてに気が配られていてこころゆくまで落ち着くことのできる空間だった。なかなか読み進まない本もここでなら静かに深く入り込み、いつのまに読み終えるということが多かった。でも今日は読書はあきらめることになるかもしれない。先客がいて軽く会釈をした。倉橋いつきさん。ここでよくみかける顔見知りの常連だった。


 名前を知ったのは先週。終売間近のルワンダのコーヒー豆を私が200g買おうとしてマスターにお願いしたそのとき、ただならぬ気配を感じて後ろを振り向くと、彼女が明らかに動揺していたのだった。当人は隠しているつもりだったかもしれない。すぐに注文をキャンセルして、マンデリンに変えた。

「ルワンダ、お好きなんですね。美味しいですものね」
「あなたもお好きならキャンセルすることなんてないのに」
「違っていたらごめんなさい。でもあなたのほうが切実にルワンダを必要としていた気がしたのです」

マスターの手もとには計量を終えたルワンダとマンデリンがあった。気を利かせたのか、このあとの展開を楽しむ遊び心からか。

「名前も名乗らず不躾にごめんなさい。私は深沢みのるといいます」
「私は倉橋いつきです。お店ではよくお会いしますね」

そんな会話のあとお店の話、珈琲の話などをした。言葉の接続が徐々に滑らかになっていく感覚だった。マスターの思惑通り、計量したまま置いたルワンダは無駄にはならず、彼女が購入した。なにも聞かないうちからパッキングまで終えていた。


 軽い会釈のあとカウンターの2つとなりの席に座った。お互い静かに過ごすことが好きなのは言葉を交わす前から知っている。彼女のぶんの余白をあけるために、詩集を選んで読み始めた。倉橋さんはタブレットの上に指を滑らせていた。詩はある程度自分から読み取りに行かなければ、わずかな偶然を除いては読む私のなかに入ってくることはない。文字よりも、彼女のためにあけた余白のほうが賑やかになり始めていた。それでも、空想の型を固定してそれに現実の思い人をあてはめたり、あてはまる人ばかりを探したりすることが、どれほど滑稽で、その滑稽さに気づかないでいることがどれほど傲慢なことかは、知っているつもりだった。となりに倉橋さんがいる、その幸福感を私にも、そしてたぶん倉橋さんにも優しいこのお店の雰囲気のなかで感じられることが、いまは嬉しかった。余白の騒めきはしだいにお店の時の流れによって鎮められ、文字のほうに心が移っていた。感じとらなくても私に流れ込んでくるのに、少しも不愉快ではない。お店の雰囲気も、珈琲の香りも、彼女の存在も、魂の自由な往来を支えてくれるものだった。頼んでいたケニアを口に含み、褐色で再構築された心地よさのなかで少しずつ文字を辿った。

 このお店にしては珍しく、ヒットソングのジャズピアノによるカバーで、Saving All My Love For You が流れてきた。2つ隣に座っている倉橋さんの息づかいが少し乱れる気配がしたが気のせいかもしれない。ただの偶然とも思えないが、またマスターの悪戯か。そうであってもなくても構わない、と私は文字が語るクラゲの性愛の世界観に戻っていった。それでも、余白がまた騒ぎ出していることに気づいていた。ちらりと横をみると、先ほどとくらべて彼女が明らかに前屈みになっていた。目は食い入るようにタブレットを追い、指は忙しく叩くような動作を繰り返していた。

「お手洗いをお借りします」

マスターに伝えて席を離れた。彼女のしぐさをみた途端に、自分でも理解不能なくらいに動揺してしまったのだ。尿意も便意もなく入ったお手洗いで、大きな鏡に映る自分の顔をみていた。彼女に関係あるかわからないのに、私の脳裏に浮かんで離れないのは、私の言葉が原因でインターネットの上から、あるいはこの世から、消え去ったかもしれない人たちのことだった。倉橋さんはなにか問題を抱えているかもしれない。抱えていないかもしれない。でもとにかく聞いてみよう。いまそんな気持ちになっている。でもかつて同じように声をかけ、相手の言葉を待って聞き取って、出来る限りの答えを伝えて、仲良くなった気分になって、それでもどんどん相手が追い詰められて行くようにみえて、その原因が私にあるような気がして、そうしているうちに相手が消えてしまって。そんなことが重なると、関係を築こうとする最初の一言がでなくなってしまう。人を追い込みそうで、出逢うことが怖い。だから、丁寧な言葉遣いを崩さずにたいていの人との関わりをこなす。端からみれば表面的な関わりにみえるかもしれないし実際そうなのだけれど、表面的な関わりすら大事にしなくなったら駄目になってしまう気がして必死にそこだけ守っているところもある。いつも用を足すときは露出して大きな鏡に映っている間の抜けた太股に目がいった。さすがに股をノーガードで晒すわけには行かないけれど、もう少し私もガードを外して倉橋さんに向き合おう、そんな気分になった。インターネットと違って言葉ですべてのことを伝える必要はない。声の大きさ、表情、視線などでも伝わるし、気持ちが彼女に向いていたらそれらは自然についてくる。そんな気がした。洗った手をペーパータオルで拭いてお手洗いの外に出た。もとの席に座ってからマスターに話しかけた。

「ルワンダはもう終わってしまいましたね」
「はい。残念ながら」
「よく似た味と香りの珈琲豆はありますか?」
「それならば、こちらのニカラグアが味の傾向としては近いですよ。華やかでフルーティーなのですが、甘味も豊かで」
「それではニカラグアを」

一呼吸おいて切り出した。

「倉橋さんにお願いします。勘定は私につけてください」
「かしこまりました」

倉橋さんは驚いて困惑している。当然だ。何を傲慢なことをしているのだ、という内なる声は聞こえたが振り切って意図を伝えようとした。

「元気になってもらいたいなと思って私からのプレゼントです。本当はルワンダがよかったのですが、なかったので、それに近い味のニカラグアにしてみました」

なんか変だ。でももう言ってしまった。気持ちとしてはそうなのだからよいのと、ものすごく恥ずかしいのとで、慌ただしくいろんなことを考えて、そして、恐る恐る彼女のほうをみた。

「ありがとう」

吹き出しそうな顔でこっちをみている。やはり相当変だったのだろうか。マスターなど露骨に背中で笑っているし。余計な言葉や無遠慮な視線を挟まなかったことには感謝するけれど。でも彼女はこう言ってくれた。

「ニカラグアも好き。それより、こんなふうに奢ってもらったの初めてよ。プレゼント、ありがたくいただくわ」

そして席をひとつ移動して私のとなりに来てくれた。ちょっとびっくりしたけれど、嬉しさでいっぱいになった。心理的な距離もだいぶ近くなれた気がした。少しずつカジュアルな言葉づかいになって行き、それでもこれまでの私のことを思い修正したり、そんな不格好な話し方になってしまった。でも彼女の意外な話も聞けたし、私も語るつもりのなかったことまで語ってしまった。この人になら話してもいい、そう思えたのは久しぶりだった。彼女はそう思ってくれただろうか。一つ席が近づくと見えてしまうものも多い。実をいえばタブレットで開いたメッセージが、彼女あてのどちらかといえば辛辣なトーンの言葉で埋め尽くされていたのを見た。それについてはなにも話さなかったし、話せるほど内容を読み取っているわけではなかった。逆に彼女のほうでも私が読んでいた詩集が気になったみたいで、よくは分からないけれど言葉でこんなふうにも伝えることができるんだね、そんな感想を私に伝えてくれた。身の上を少し掘り下げただけで、そんなに深く互いにたどり着く会話でもなかったと思う。彼女は結婚していて、旦那さん以外にも彼氏がいるみたいだった。そんな話を言いふらさないと思う程度には私を信じてくれたみたいで、ちょっと嬉しかった。私は私で、よかれと思ってした行動が人を追い込んだり、性的に奔放な人と知り合ったけれど結局1回もセックスしないで関係を切った話などをした。理屈っぽい子ね、と呆れられながら。どちらの話題も、それだけで人のことを判断できない類いのものだし、もっと倉橋さんの近くにいていろんなことを知りたいと思った。彼女がポツリとこう言ったのはいつまでも残った。

「私のほうが甘えること、あるかもしれない。そのときは1回は私に付き合ってね。2回目から無視しても構わないけれど、1回だけ」

2回目も無視しないよ、そう私は伝えたけれど、その約束はいらないと返された。大事にするもの、しないものについて、曖昧なまま生きている私のことを倉橋さんは見透かしているのかもしれない。

 お店をでて少し一緒に散歩することにした。倉橋さんはマスターの点てたニカラグアの、珈琲豆と、ドリップバッグを2つ注文していた。彼女が受け取ったドリップバッグをみたら、あからさまなクリスマス仕様、それも恋人同士向けのパッケージで、私は思わずマスターに視線を投げた。どういうつもりかと。

「いや、パッケージがこれしかなくてね。いいじゃないですか。お似合いですよ、彼女に」

1つめは嘘だろう。棚の右上に通常パターンのドリップバッグの素材がたくさんあるのが見えていた。でも2つめはどうか。彼女と誰にお似合いなのだろう。旦那さん?彼氏?私?そんな気持ちにしばらく揺れながら、クリスマスの飾りであふれる通りを倉橋さんと一緒に歩いた。来たときの苛立ちは消えていた。褐色の濃淡で世界を捉え直したとき、その濃いあたりを私は避けて知らずにきていたのかもしれない。でも倉橋さんが隣にいることで、違う風景が少しみられる気がした。街に、あるいは倉橋さんのなかに。


散文(批評随筆小説等) 褐色の濃いあたりに Copyright 深水遊脚 2016-12-08 18:44:44
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