Miz 23
深水遊脚

「足はもっと高くあげて」
「まだやれるよ。今度のも一発で決めて。」
「手の動きにキレがなくなってる。リズムに合わせて。そこで回し蹴り。足を変えて踵落とし。駄目駄目。全然遅れてるよ。」

橋本さんのマミちゃんを叱咤する声が絶えることなく響く。入りたての頃あんなにバテていたマミちゃんとは別人のようなシャープな動きだ。マミちゃんは貪欲に課題にトライするし、橋本さんはその貪欲さに応えて情熱的に指導しつつもマミちゃんの状態をよくみている。最初こそ訓練の厳しさを削いで効果を減少させるのではないかと恐れた、計測機器による心身のコンディションの把握も、マミちゃんの潜在能力を引き出すツールとして見事に機能している。ここからどれ位の伸びしろがあるのか考えると、久しく忘れていた希望という言葉を実感する。癒しを求めた先刻までの私自身があまりに滑稽でつい独りで笑ってしまった。

「広夏さん、こんにちは。今日は来てくれましたね。」

青山くんがトレーニングルームに入ってきた。

「ええ。なかなかここに顔を出せなくてごめんね。これからはもっとここに来られるわ。」
「有り難いです。広夏さんがいたほうがやはり安心です。でも俺らも須田の指導でだいぶ認識を改めました。指導の奥深さを知った感じです。」
「それは頼もしいわね。私、いなくて大丈夫かしら。」
「来てくださいよ。お願いします。俺らも甘えてばかりでは仕方ないけれど、広夏さんにしか出来ないこと、いっぱいありますよ。何より須田がいちばん心を開いているのは広夏さんなんですから。」

曖昧に頷いたけれど、そこは当てにされると困る。人間関係はいい時も悪い時もあるから、一喜一憂せずにマミちゃんに向き合って第2ステージをクリアさせるように導いて欲しい。それに、マミちゃんが私に一番心を開いてくれているとは思っていない。誰に対しても、心を許してくれていると思った途端に、その人に対してとても粗雑になってしまう。そういうのは嫌だった。でもこれは個人的な価値観であり、他人に指導するような内容ではない。青山くんには伝えなかった。すべてを出しきらない会話は気を使うばかりでぎこちなかった。政志くんと柏木くんとの模擬戦のことで下手なことを言えないという考えが、そのぎこちなさを増した。もっとも青山くんは模擬戦のことを知っていたようだ。

「政志さんの具合はどうでしたか?」

そう聞かれたのだ。まあ隠すには大袈裟すぎ、人が多く動きすぎた。以前も政志くんと柏木くんの模擬戦では暴走があり、騒ぎの起こりかたも似ていた。おまけに政志くんが病院にいる。何が起こったかはもはや知らない人はいない。察しのいい人なら細部まで手に取るように分かることだろう。青山くんは鋭い。大まかな模擬戦の展開や、幸政くんや私が見舞いに行ったことまでお見通しだろう。どうせ隠しても無駄だ。普通に答えることにした。

「人間としては、命に別状はないといったところね。特殊能力は一度使いきった状態。回復するには特別な訓練が必要かもしれないわ。」
「なんだか、壮絶な戦いだったみたいですね。政志さんも、柏木さんも、興奮すると抑えが効きませんものね。模擬戦で戦わせないほうがいいですね。」
「皆そう考えるわ。たまに違う人がいるけれど。」
「いますね。」

悪戯っぽく青山くんが笑った。彼はとても素直で、春江さんも政志くんも柏木くんも、単純に尊敬している。それぞれの癖は見抜いた上で、信念を共有して行動をともにする仲間として安心して身を寄せている。私は彼が柏木くんについてどう思っているかが気になった。

「柏木さんもたぶん悪い人ではないんですよね。面倒見はすごくいいし、体の鍛え方や怪我をしたときのアドバイスなんか、本当に的確でしたよ。勘ではないんです。ちゃんと勉強していて、言うことには根拠がある。でも戦闘訓練のとき挑発するんですよ。そこまで言うかというくらい。あれが大抵の人には刷り込まれてしまう。挑発文句も、相手によって一番効果的に傷を抉ったり怒りに我を失わせたりする。案外文学のほうも勉強しているのかもしれませんね。 普段から表現に磨きをかけている。 」

青山くんは人の長所を発見するのが上手い。どんな人でも彼に語らせればいい人になり、有能な人になってしまう。そう考えてしまうのは私の人を見る目が曇っているのだろうか。

「ということは、青山くんも柏木くんを相手にして、傷を抉られたり、怒りに我を失ったことがあるの?」

少し意地の悪い質問を投げてみた。青山くんの顔が曇った。

「名前のこと、ですかね。」

そう言ったきり青山くんは黙りこんだ。 言葉を選んでいるのだろう。マミちゃんのシャープな体の動きを、真剣な目でみつめていた。

「広夏さんは気づいていますか?名前のほうが珍しいこともあってか、須田にはいろんな呼び名がありますが、柏木さんは彼女のことを名前では呼ばないんです。ほかの人が須田、真水さん、マミちゃんなどと呼んでいますが、柏木さんの場合はいつも小娘だったり、お嬢さんだったり、あの女だったり。柏木さんはたぶん意識してそれをやってます。私が柏木さんの指導を受けたとき、片桐希空も一緒でしたが、彼女のときもそうだったんです。小娘、お嬢さん、女、あるいは彼女が嫌がることを知っていて、ノアちゃん。私のこともリカルドと呼んだり。どこで調べたのか非公式のミドルネームを知っていたんですね。一番呼ばれたくない名前を、ミスをしたり精彩を欠いたりするときに呼ぶんですね。その場の闘志を引き出すためかもしれないんですけれど、言われた方はずっと残ります。仰るところの、傷を抉られたり怒りに我を忘れたりした経験はだいたいそれと結びついています。柏木さんがどの程度の気持ちで言ったのか、言ったことを覚えているのかは知りませんが、それで日本を守れるのかとか、フィリピンに帰るか、そう言ったことを私は生涯忘れませんよ。広夏さんはご存じですよね。両親は国際結婚しましたが、両親も私も日本人であることを選び、日本人としてずっと暮らしてきたんです。リカルドは、母方の親戚と関わるときの名前です。でも戸籍名ではありません。母の祖国を誇りに思う日本に暮らす日本人、青山新一。それが私です。母との所縁のない人たちにリカルドと呼ばれると、鍵付きの部屋がいつのまにか荒らされていたような戸惑いを感じるんです。日々のヘマとそれが結びつけられると、こちらが反論しにくいぶん余計にその戸惑いに逃げ場がなくなって、ダメージは溜まる一方でした。それが指揮命令の系統を守る意識を植え付けるための指導だということは、いまは分かります。当時はほとんど理不尽に対する怒りしかなかったんです。片桐に愚痴を聞いてもらっていなかったら、耐えられなかったと思いますよ。片桐は冷静でしたね。私の愚痴に同調も反論もせずに受け止めてくれた。」

静かで、でも心の底から燃え上がるような怒りを含んだ声だった。最初は探るような口調だったが、しだいに滑らかになり、そして激しくなっていった。低音を多く含んだ声も、こんなに長く話すことも、青山くんには珍しいことだった。何て返してよいかわからなかった。訓練時の挑発に差別的な言葉を混ぜることは、私は少なくとも悪いことだと考えていた。でも法も内部規則も直接それを禁止していなかった。せいぜい模擬戦の終わりに指導し、ひどい場合には警告を与えるくらいだった。柏木くんのような常習犯は何度でもそれを繰り返す。先日の模擬戦でライトストリングで拘束して拳で突いたのもそんな苛立ちからだった。本当はよくないことで、反省している。こんなふうにいちいち葛藤するのも鬱陶しい。私も春江さんのように、訓練時の必要悪と割りきればよいのだろうかとも時々考える。でもいまの青山くんをみていると、それはやはり間違いなのだと思う。こういう心のうちは誰彼構わず打ち明けるわけではない。だからあまり知られることはない。知る人があっても青山くんの悔しさをそのままに知るところまでは行かない。そうして多くの人にとって、痛みはなかったことになるのだ。

 軽い気持ちの言葉で青山くんの傷を抉ってしまったことを私は詫びた。青山くんは、話すべき人にはきちんと話しておきたい、私は話すべき人のひとり、そう言ってくれた。


散文(批評随筆小説等) Miz 23 Copyright 深水遊脚 2016-10-28 23:14:13
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