並木道
もっぷ

 新卒採用の私はようやく三か月目だというのにすでに苗字ではなく名前で呼ばれている。
「並子さん」
「なみこさん!」
 もちろん笑顔を湛えて声の主のほうを向き「はい」と元気よく(新人らしく)返事する。
 名づける時には、周囲の反対もあったのだとは聞かされていた。それではこどもが可哀そうだ、と。当然だと思う。親に言わせれば、
「多くは望まないから、せめて、何はともあれ、心身ともに人並みであってほしい」
 ということになる。ちなみに隣の席の一年先輩にあたる佐川さんの名前は「永久恋愛」と書いて「えくれあ」だった。彼女には彼女なりの想いや過去もあるらしい。
「いつか二人だけで飲みたいね」
 佐川さんは、入社の初日も無事にこなしほっとして帰り支度を始めた私に、そっと耳打ちしてくれている。気の利く優しい女性であるという直感はまだ、裏切られてはいない。

 並子と名づけられた私は就学前、幼稚園から帰ると天候さえ許せばいつでも庭に居た。プレハブの建て売りだったし、たぶんいまの私の背丈では考えられないことだけれど当時の少女にとってならその庭は計り知れない輝く未知の宝庫だった。
 彼女は四季にスミレを視ていた、たとえ十二月でも。理屈ではない、そのちいさな雑草にまるで恋するような、あたかも思春期のごとくの熱を懐いてほんとうに恋をしていた。ほかの草花をも大切に想っていたし、彼女が好む彼らはおしなべて雑草ばかりだった。
 その理由を少女に訊いてみれば、
「あたしのことばをわかってくれるから」
 きっとこう答えるに違いない。つまり彼女はその家で、(当時は)内気な性格の、一人っ子だった。しかも名前は並子、どこか雑草と響き合ったのだろう。
 話をスミレにもどすことにする。スミレは四季には在るはずがなかった。少女の(私の)記憶違いだろうか。この提案に納得するわけもない彼女は(私は)頑なに信じたいことがあった、庭はいつでも春だったのだという、そのことである。
 その、春の庭にある時ボールが飛び込んできた、野球のボールだったのかあるいはもっと大きくて見つけやすいものだったのか。
「すみません!」
 と言って数人の男の子が庭に侵入してきた、少女のサンクチュアリに。ありそうで実はこの時がただ一度きりの大事件だった。並びの余所の家ではもっと頻繁にそういう少年たちを受け入れてきたはずである、向かいに大きな空き地のある一画に位置した五軒のどれもがそっくりの建て売り住宅だったから。少女の聖域が遭遇する災厄が一度だけで済んだということのほうが奇跡の賜物以外のなにものでもなかったのだ。
 さて、足である。男の子たちはほぼ小学校を来年終える、だいたいそんな歳の頃。その彼らの足である、少女の眼は生まれて初めての忙しさであちらの足元こちらの足元を点検するべく必死で動きまわった。
 案の定、一輪の犠牲を彼女は見逃さなかった、瞬時に声をあげた。それはニンゲン語と呼べるようなものではなく、体全身からの悲鳴だった。喉も口も介さない魂による直の発声。
 誰一人にすら意味を理解されずにそれでも少女の絶叫がやまない。その家の母親らしき若い女性が姿を現し、正体不明の騒音を近所迷惑とよくわかって故に少女を家のなかに片づけてしまった。
 お母さんが用意してくれた手作りのにんじんケーキを食べながらも、あたしはなみだが止まらなかった。理不尽という言葉をまだ知らなかったけれどあのスミレの命のことをいったいほかにどう思い詰めればよいのだろう。
 みんながほがらかになる春にあたしはかけがえのないお友だちの命日を持つことになったのだとぼんやりと思考が行き交う。そのうちに四歳だったのかそれとも五歳のこのちいさな体はとても疲れて、気がつくとあたしは私の思い出のなかで眠りに落ちた。

 目覚めると梅雨の窓があった。カーテンは開けたくない、まるで駄々っ子のような週末の朝にたたずみ、思いに従いカーテンを開けることを拒絶する。私は思案ののち空調をつけて部屋の湿度を多少とも居心地よくすることを発見するが、躊躇ったのちにそれをもしなかった。
 枕に巻きつけておいたタオルを取り払って洗濯機に放り込み、くちゃくちゃのタオルケットを広げながらそこそこに畳んで、思い出したように灯りを点けてそして消す。きょうはめちゃめちゃ暗い私で居るんだと決定する。
「誰からも電話が来ませんように」
 とうそぶいてだけど電源を切ることをせずに携帯を握りしめる。脳裏をよぎるあの顔この顔。誰ならば…、誰ならばどうだというのだろう、ただわかっているのはいま、切実に誰かの(人間の)声を聴きたい、ということだった。
 吹っ切るように、ついに思い切ってカーテンを勢いよく開けてみた。紫陽花が見えた。そのまま両腕を持ち上げて伸びをしていると、ふいに右手に持ったままだった携帯が鳴った。
「並ちゃん、もしよかったら私と昼から飲んじゃおうか。雨、上がるらしいよ」
 佐川さんからだった。確かに向こうの空が明るい。そして「並子さん」ではなく「並ちゃん」って。それっていいかも…。
「佐川さん、はい!」
 こどもみたいにはしゃぐ心を隠せずに返事をしながら私には、大好きな小花柄のワンピースを着て日傘も差さずに歩いている自分の姿がもう、窓からの紫陽花よりもはっきりと見えていた。



散文(批評随筆小説等) 並木道 Copyright もっぷ 2016-09-04 16:20:24縦
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