僕の好きな井上陽水は、宮沢賢治の「雨ニモマケズ」の替え歌と言うより、返歌「ワカンナイ」を作っている。
雨にも風にも負けないでね
暑さや寒さに勝ちつづけて
一日、すこしのパンとミルクだけで
カヤブキ屋根まで届く
電波を受けながら暮らせるかい?
南に貧しい子供が居る
東に病気の大人が泣く
今すぐそこまで行って夢を与え
未来の事ならなにも
心配するなと言えそうかい?
君の言葉は誰にもワカンナイ
君の静かな願いもワカンナイ
望むかたちが決まればつまんない
君の時代が今ではワカンナイ
日照りの都会を哀れんでも
流れる涙でうるおしても
誰にもほめられもせず、苦にもされず
まわりの人からいつも
デクノボウと呼ばれても笑えるかい?
君の言葉は誰にもワカンナイ
慎み深い願いもワカンナイ
明日の答えがわかればつまんない
君の時代のことまでワカンナイ
君の言葉は誰にもワカンナイ
君の静かな願いもワカンナイ
望むかたちが決まればつまんない
君の時代が今ではワカンナイ
(井上陽水「ワカンナイ」)
http://www5.ocn.ne.jp/~loot/poem.html
これが、なぜ作られたか、自分なりに考えてみる。
まず「ワカンナイ」とタイトルが賢治と同じ片仮名づかい。
時代と賢治そして今、賢治への共感的違和の感覚が見える。
そうして突き放しながら同じ仮名遣いと、平仮名を使い、賢治との距離と接近が同時並行に行われている。右記ホームページは、賢治と陽水の作品が並べられている。
賢治の「世界中の人が幸せにならない限り、自分は幸せにならない」的姿勢を僕自身も、そうかんがえるときが、あるけど、何か「そうかもしれないけど、ちがう」と感じる。
だから「ワカンナイ」と受ける井上はとても、共感しうる。
まず「ほんとうの」と賢治は、よく使うが、賢治の「ほんとう」が、私たちにあてはまってしまうのは、普通に変だ。当てはまるときもあるかもしれないけど、いつもそうだというわけじゃないという常識的感覚なしには受け取れない。
賢治は、ある種、つよいと言うより固い感じがして、それは、受け手に対して柔軟ではないから。もちろん、主張は曲げなくていいけど、受け手を集めると言うよりも、受け手に、耳を澄まさせる強制力なしに、賢治の詩は伝わらないのではないか?
これまでの賢治の原稿の編集、校訂者も、バラバラな字さえたくさん抜けている間を、想像しながら編集したがそれでよかったのか?
君の言葉は誰にもワカンナイ
君の静かな願いもワカンナイ
望むかたちが決まればつまんない
君の時代が今ではワカンナイ
(引用)
三行目が大事だと思う。賢治の断定句だけでなく、「つまんない」といってるのも、本当につまんなかったら曲は作らない。賢治の詩がこわばった形で残って、あるドグマ(絶対的な教え)に近い形をとっている。そういう状況が「つまんない」と平仮名で書かれているのはまさに詩情がいい形で残ってないことへの嘆きだ。
「ワカンナイ」は、僕はヨウスイのうたでは、好きではないが、それは、陽水が本気の実験の中で、賢治の圧倒的なテキストの磁場に飲み込まれているからだろう。
作家の沢木耕太郎に取材したらしいから、相当しんどい作業の中で「ララララララララララルン」という歌い上げでかろうじて賢治のドグマ化に抵抗しているのだ。
僕もどうゆっていいか、賢治に対して、わからないので、そこに共感するのです。
南に貧しい子供が居る
東に病気の大人が泣く
今すぐそこまで行って夢を与え
未来の事ならなにも
心配するなと言えそうかい?
(引用)
ここは、賢治が今生きていても何か云いそうですが、自分たちの未来も不確かだと言うところで、ヨウスイもためらっているけど、「なにも心配するなと言えそう」でなくても、何かそんなこと気にしなくても、不安な未来や、その中の自分を考えることは、自分たちなりに可能じゃないのかと楽観の勇気を確かめたい僕です