宮沢賢治の詩メモ
石川和広

宮沢賢治の詩を読むのは、とても辛い
自分の苦に、まといついてくるみたいだから
彼は、いつもじたばたしている「デクノボー」であるから

辛いけど、あざとい詩もあるけど、美しいから困る
日本語がうつくしいというより、彼はエスペラントを勉強したり、サハリンまで行ったりしている。色んな言葉の奥底をたどって、それらをぶつけ合って苦しんでいる。妄想している。声を聞く。その音色が彼の詩である、か。
様々な不協和な音をミクスチュアーする。その楽器・音の箱が賢治だろう。
そして、音たちが、(確信犯的に?)彼のやまい(宿業、因果と考えていたろうが)と響きあう。
それがモロに出てくる詩がある。
「鬼言(幻聴)」は傷ましくもあり、露悪的であるようにも思う。


三十六号!
左の眼は三!
右の眼は六!
班石をつかってやれ
(春と修羅二集より)


その前の「岩手軽便鉄道七月(ジャズ)」がジャズである。これは、賢治の一種の美しい鎮魂が終わっていくよに、悲しく「最後の下り列車である」で終わる。
ここには「第三集」に至る地上的汚れへの失墜、地べたからの詩を書く決意が秘められているようである。
「鬼言(幻聴)」は班石(ぶちいし)で、目を潰せ!というまさに「幻聴」の詩なのだけど。
ここまで病気を押し出されると「参りました」の見事さで、三と六で、さぶろうと読めたりして、音韻としても興味深いし、びっくりである。
そしてここから第三集の「春」の
「ぎちぎちと鳴る汚い掌を、おれはこれからもつことになる」
といってるあたり、喪の終わりから、動き出すのだけれど
「札幌市」に示されるように「湧き上がるかなしさをきれぎれ青い神話に変えて」
それを「楡の広場に力いっぱい撒いて」も
「小鳥はそれを啄まなかった」
というように、もう賢治の音楽の美しさが通用しない世界に来ている。それがまた「開墾地検察」に出てくる「はあ」と手応えのないあいづちが返ってきてしまう中を漂うように。
あたらしく詩を「開墾」=「悔恨」しても、ダメで、その辺りの途方のなさに共感します。
やっぱり、「これみよがし」の強さが病気として強調されちゃうところに、他の雑音を排そうとする野蛮と清潔なファシズムと入り混じったものも感じる。
善し悪しは別に詩人として、唐突な散逸稿を残す強さは、病理の形をとって、精神の複雑骨折から詩を鳴らしていたんだろう


散文(批評随筆小説等) 宮沢賢治の詩メモ Copyright 石川和広 2005-02-26 18:25:02
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