ある男の命日に
イナエ

その川は病院の屋上にあった
男はゆっくりと川に入った

  早暁の屋上には看護師はいなかった
  監視カメラも男をとがめなかった

男の中で長年… 
そう 半世紀ものあいだ
渡りきれなかった大陸の川
少し先を同期の戦友が泳いでいく
銃が濡れないように捧げて
向こう岸は靄に沈んでいる

身体が重い
戦友の姿はどこに消えたか
遠く聞こえていた砲弾の音は聞こえない
身体が沈む

背嚢を捨てた 
軍靴も捨てた
身軽になると向こう岸が 
彼岸が靄の中に明るく
華やかに浮かんでくる

男の唇が笑む
目にはなにも見えなかった
見る必要も無かった
男はゆったりと抜き手を切り
水を蹴った

  監視カメラを覗く者がいたならば
  風呂に静かに浮いている男を見ただろう

男は静かに息を吐いた
が 再び吸うことはなかった
男はゆったりと
屋上の川を渡っていった




自由詩 ある男の命日に Copyright イナエ 2016-06-20 10:56:34縦
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