のどぼとけ×時間×エクスペリメント
高橋良幸

 2月末、祖母の納骨式。仙台市青葉区中山に向かうバスが電子音声でぎこちなく次の停留所をアナウンスする。続けて紹介されるクリニックか何かの広告は人の声の録音だった。割安で電子音声の広告枠を用意したら需要はあるだろうか。昼を過ぎて、それでも雪が降りそうな気温の中、お寺を待たせていた叔父が小走りで戻ってきた。骨壷から取り出した袋のどこかに、のどぼとけがある。墓石を閉じて、読経が始まる。ほとけの教えが骨をふるわせる。焼香が済んで、帰る坊さんへ心付けを渡しに、叔父がまた小走りであとを追いかけて行った。お寺の車が汚いことには意味があるのだ。
 3月になって、渡し忘れていた香典を送った。札幌からではなくて、長期出張先の東京から。東京は新幹線で仙台まで行けるし、中央線に乗れば行きたいライブに行ける。渋谷公会堂、新世界、アサヒアートスクエア。出張中に無くなる場所が多いように思ったが、親戚一同で祖母の家を祭りのように整理整頓のと同じく、札幌でも仙台でも場所がなくなることはよくある話に違いない。

 ここ10年ぐらい、朗読のイベントには縁がなかった。10年前の札幌はWords...という名のイベントをはじめ、小さな言葉の催しがいくつか企画された頃だった。俺は何度か参加させてもらって、膝の上で鍵盤を弾きながら足でリズムを刻んで、詩というよりは歌詞として言葉を喋っていた。音だけが鳴るような音楽をやっていた友人からはそんなにいい評価ではなかった。詩の朗読は、そこで初めて鑑賞するべきものとして聞いた。今札幌で何か別のイベントがあるのかは知らない。
 脳の信号の流れに近いのは詩の朗読よりも歌だと思う。同じ歌を歌えば、そこに同じ信号の経過があることを確認できて安心する。歌はイントロからエンディングまでの不可逆な時間の流れがある。対して、詩は明確な時間の流れを持たない。時間を重畳させていたり、時間を俯瞰させていることもある。そしてその時間の展開の仕方は読者に委ねられている。ラッパーはラップをしている時がラッパーで、シンガーは歌っている時がシンガーで、詩人は詩を書いている時はそうだとしても、時間の流れの中に身を置いて詩の朗読をしている時は詩人なのだろうか。

 3月初めに見に行ったポエトリースラムジャパンでは、時間経過を意識した詩が多かったと思う。朗読する詩の内容が時間経過を持つということは、詩の内容の展開の具合を、朗読者側と観客側で時間軸に沿って同期を取ることができるということだ。歌がメロディーを繰り返すように。3分の長い詩を朗読するときに、同期がとれることは大事なことだと思った。その時に詩人は詩情を伝えることができているという意味で、しっかりと詩人であったと思う。他にも大事なことはいろいろあるだろう。標準語でない詩が良かったのも理由があるはず。
 現代詩は伝達の試みの地平にあるものだと思う。伝達可能な言葉と、伝達不可能な言葉の境界にあるものだ。朗読は声と体とによって、伝達不可能な部分の情報量を増やすことができるかもしれない。しかしそこには「一次元の時間の進行の中で」という制約がつく。詩情の展開が、時計が刻む時間の関数ではないのだとしたら、たちどまり、ふりかえり、視野の外で他の連を盗み見しながら行っていくものだとしたら、そもそも声があって初めて成り立つ詩など書けるのだろうか、歌に近づかないようにして。そう考えていると、朗読というものは詩に不利な面が多い気がしてくる。ノイズだけだったり、リズムのなかったりする音楽には心を預けられるのに、朗読はそういかない時がままある。俺のよくわからない好き嫌いのせいかもしれない。でもそれを別にしたとして、その場合朗読は何が良いのだろうか。
 朗読用の詩。朗読があって成り立つ詩。それは活字だけになったときに成り立つだろうか。優勝した方の朗読は抜群に良かったし、新しいものに聞こえた。活字だけになっても、詩として成り立つもの。ゲストラッパーのパフォーマンスもとても良かった。でもそれが朗読だったらどうだろうか。黙読用と分けて、朗読のための文章を書くのなら、それをラップや歌にしない意味は何なのだろう。長丁場で一人でいたせいもあるだろうが、ポエトリースラムジャパンから帰る頃にはだいぶぐったりしていた。その数日前に六本木で見た音楽のライブの浮き足立った帰り道とは全く異なっていた。

 もやもやした気分を晴らすためには、オープンマイクに行くしかないのだ、と思った。見に行くだけじゃダメだよなあ。10年前のことを10年ぶりに練習して。結果として、3月末に参加したオープンマイクは自分の出来はともかくとして、見ている分にはとても面白かった。ポエトリースラムジャパンと印象が違うのは、場の雰囲気のせいだろうか。それとも朗読に似合う箱の大きさがあるのだろうか。実験音楽がその界隈だけの小さなライブハウスで聞かれているように。試みに合う箱の大きさ。その集いとしての大きさ。
 現代詩が一般的に広く読まれてしまうのであればそれはもう現代詩ではないのかもしれない。試みとして閉じていても、ある程度仕方ないのかもしれない。それに対して朗読は開かれている。声が誰の耳にも届いてしまう。試みに合う箱を超えて。知己や親密さを超えて。朗読は誰もの耳に届いてしまうこと自体が試みなのかもしれない。PSJで優勝した方の朗読が新しく感じたのは、現代詩の地平と朗読の地平を両方模索していたことに加えて、何かがあったのだと思う。定型から離れた日本語の朗読は現代詩と歌のあいだでまだまだ揺らいでいるのだろう。その境界を試す場所がある。現代日本語が古典となるまでのあいだに、日本語を母語とする人間はどれだけその境界を突き詰められるだろうか。

 広告のアナウンスが完璧に綺麗な電子音声で読み上げられて、人間がそれを心地よいと思ってしまう時代が来たら、声帯は退化を始めてしまうかもしれない。心地よさは商機につながる。美声以外は商業から駆逐されてしまうかもしれない。それでも、電子音声がいかに琴線に触れられるかを競う傍で、生身の朗読が目指すものは今と変わらないはずだ。日本中のお墓にしまわれていく、のどぼとけの試作品と完成品と。


散文(批評随筆小説等) のどぼとけ×時間×エクスペリメント Copyright 高橋良幸 2016-04-02 09:45:17
notebook Home 戻る  過去 未来