玉川上水
高橋良幸

年の暮れにすっかり見通しのよくなった玉川上水を歩く
日差しというのは本当にこんなものだったろうか
木陰を求めなくなった皮膚が季節を飛び越え
あるいは目の前の季節以外を忘れてしまったみたいだ
足の甲まで重なった落ち葉は確かに一年分の営みの結果なのだろう

多摩から江戸まで歩いて1日以上かかる道のりで
上水はずいぶん深く掘られている
今は都心まで行けずに三鷹の少し奥で途切れているが
端から端まで歩けば忠告の石碑が置かれ
記念の松が植えられ、武蔵野市では手入れが滞り
どのように江戸から東京まで続いてきたかがわかる
先を行く子供がいる
後を歩く老人もいる
落ち葉を蹴り上げて進めば
後ろからも似たようなさざめきが聞こえてくるのだ



 ず ざ

    ざ ざ ざ

あまりのさざめきの大きさにおどろき
振り返る
平坦な道があった場所には
落ち葉の壁が積み上がり
(これは壁というよりも、坂だろうか)
さらにその奥までも埋もれているのが見えた
見通しが良いばかりに一年分以上の
落ち葉が重なって見えたのかもしれない
いったい何年分の厚みだろうか
遠く見えなくなるあたりでその壁(あるいは坂)は
梢まで迫ろうとしていた
低空をゆく太陽を
捉えられそうなその高さまで

梢の高さに思う
振り返ればこの木々はそれだけ低く、若かった
今の若木が将来そびえるだけの年月
僕は知らずに託していたのだ
それは偶像のようなもので
くぐり抜けることができるもの
時間のトンネルに喩えられるもの
ベージュ 絨毯
黄金 冬の玉川上水
再び歩き始めると背後の落ち葉は
その勾配を少しずつ崩れて
歩く一歩先を埋めようとしてくる

勾配が終わった場所で
いつも僕らは暮らしている
それは一年草が枯れていく場所だ
あなたが生きていて
僕も生きている
けれども一緒に過ごせる時間は
こんなに短い

今年も一年をひとくくりにしようとする番組が
いつの間にか歌合戦になっているはずだ
言葉が知っていること
よりも体が知っていること
のほうが多くて
そのためにまた、書き記してしまう
万物の理を僕らは体現し続けているのに
今年もまだ計算を終えられずにいて
かといって、歌う歌はいつでも正しい

そうだ、歌え、歩け、口ずさみながら
東京からトーキョーまで歩く人間をくぐらせていく
並木道が僕らの希望の拠り所だ


自由詩 玉川上水 Copyright 高橋良幸 2015-12-30 19:00:13
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