(ゐ)のひと
たま

 パソコンがなかったら仕事ができない。
 年金詩人のわたしは今日もパソコンと睨めっこしている。正確にはマイクロソフトワードがなかったらということになる。その理由は文字を書く労力が半減することで、文章を書く(打つ)ことが好きになるということ。
 このわたしのへたくそな字に呆れて、イメージが続かなくて、書き直しばかりで前に進まないという苦労から、開放されるというわけだ。
 と云うのは正直にいうと、表向きの理由であって、ほんとうのところは、なんといっても漢字変換だろう。

 もともと、読むことはできても書けない人間だったから、漢字を書く苦労って、とんでもない障害だったのだ。その障害があっさり解消されて、年金詩人の世界は一気に宇宙大になった。
 な、なんと、小説まで書けるのだから。
 それで、年金詩人は優雅に暮らしているかというとそうでもない。ときどき、ワードの深い落とし穴に嵌まってもがいている。たとえば、現フォはハンドルネームの世界なので、とんでもないハンネに遭遇することがある。
 啜ねゐこさんもそのおひとりだ。まったく読めなかった。読めないということは書け(打て)ないとうことになる。啜さんの作品にコメントを書くにあたって、え? という感じでなんぎするのだ。

 ワードの漢字変換は単漢字が基本だろうと思うけど、たとえば(い)の単漢字は非常に多い。その中に、啜さんの(ゐ)もあるわけで、それにたどり着くのに5分あまりかかってしまった。(たま)なんてハンネはいかに優しいかというのがよくわかる。漢字変換にはひらがなも数字もすべてが含まれるということだ。
 それで、そんなことで、ときどきは苦労するけど、パソコンがあれば年金詩人はすこぶるご機嫌である。

 ことしも残りひと月あまり、ふりかえればけっこう書いている。詩、エッセイ、小説、雑記、手紙、日記・・・何ひとつとしてまともなものはないし、小説なんかは文学賞に応募するけど、軒並み落とされたりして、でも、軒並みということはそれだけたくさん書いたということだから、わたしとしては、さあ、どうなんでしょうか。
 え? 何それ?
 まあ、買わなきゃあ当たらない宝くじとおなじだと思うのです。書いて応募しなきゃあ当たらないのだ。
 ちなみにどんなところに応募しているかというと、「群像文学新人賞」「埼玉文学賞(小説部門)」「第一回藤本義一文学賞」「日産 童話と絵本のグランプリ」・・・いや、いや、いや、手当たり次第ということですね。
 正直いうと恥ずかしいのです。公募ガイドを見たら、つい書きたくなっちゃって、もちろん賞金目当てなんだけど。三十枚書いて三十万、なんてのがあったら半月で書けちゃうから。視力ばかりが低下するのだ。ほんと、年金詩人の弱みにつけこむ公募って、罪だと思う。

 そう、そう。問題はそこなんだ。
 浅ましい年金詩人は嫌だなあって思うけど、毎日パートで稼いでも月九万あったらいいほうだし、地方の時給は安いし、なんかほかに手っ取り早いものはないかしらって、考えたら、そうだこの手があったのだなんて、だから年金詩人は、我が国の出版業界に大いに寄与していると思う。
 まあ、それでも、死ぬときはひとりだし、家内を誘って死ぬわけにもいかないから、老後の足しになればと、がんばって書いてるけど、家内も犬も相手にしてくれない。もちろん、それでかまわないけど。

 小説を書き始めたのは定年退職間際でした。六十歳を目の前にして、二十代の忘れ物を思い出したというか、後片付けしなきゃあというか、それにしてもまだ三十年は生きるだろうって。じゃあ、後片付けだけなら一年あったら十分だし、残りの二十九年はどうするのよ? って。
 まず喰わなきゃいけない。喰うためには金がいるのはもちろんだけど、ほら、モチベーションとかゆうやつ、生きるためにもそんなものがいるんだって。それで、三年ほど過ぎちゃったから、残りは二十六年ある。まだ若いな。なんて、あした死んだらどうする。
 まあ、それもあるでしょう。あしたのことはわからない。家内と犬一匹残して死んじゃうのもいいではないか。そんなことよりも、年金使い切って死ねなかったら、それこそ悔いが残る。だから、公募ガイドは手放せないのだ。モチベーションって、そのためなんだよ。

 そうだ、詩の話もしなきゃいけない。現フォなんだからね。(し)の単漢字もけっこう多い。その中に(詩)があるのだけど、さすがにわたしのパソコンは一発で変換する。(詩を書き始めたのは三十歳のときだから)もう三十数年も詩を書き続けているけど、ワープロ、パソコンを手にしたのは二十年ほど前になるから、器用に生きたといえるかもしれない。
 わたしの世代はちょっとややこしくて、世間でいう団塊世代でもない。昭和二十七年生まれというと、その世代から三年は外れている。その三年が微妙というか、年金をまともに貰えなくなった世代というか、兄貴たちを見送るために生まれてきた、出来のいい弟(もしくは出来の悪い弟)だったのかもしれない。その兄貴たちは捨てるほどいる。でも、わたしの弟たちは数少ない。おまえらだいじょうぶか? って、すごく心配になるけど、年金は残したくない。
 うん。

 あ、そうだ、詩の話だったっけ? でも、もう、そんなのやめとこう。年金詩人はこの季節の落葉みたいに掃いて捨てるほどいる。どんなに辛い状況であったとしても、生まれてくる詩は希望のことばであるはずだ。わたしはそう信じている。丸裸の欅の枝を見上げて、ひとつでもいい、そこに芽があったら、わたしは生きてゆける。
 がんばれよ、おまえ。春までそこにしがみついてろよ。枯れたら死んじゃうぞ。
 そうだよ、来年はきっと、いいことがある。
 きみのパソコンにもね。










散文(批評随筆小説等) (ゐ)のひと Copyright たま 2015-11-29 10:54:07
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