草食う
竜門勇気


僕は道草を食うのが好きで、もしそういうジャンルの職業があるならば間違いなく小学生の頃の作文には将来の夢としての道草イーターへの思いが暑く拙く紡がれているはずなのですが、そういう将来性が道草にはないので、今生の僕の作文での将来の夢ははプロ野球選手なのです。(時速100kmの速球を投げるそうですよ!)
現在、主に趣味としての道草食いを行っています。
活動内容としては、近所を缶ビール片手にウロウロと彷徨い歩き、目にした食べれそうな草を採集するのです。ぱっと見た感じ完全に不審な動きをする不審な人物が不審な葉っぱを手にして不審なビールを飲んでいる形です。
でも、それは違うのです。僕は平日の昼間に結構酔っ払った状態でヨモギとか、なんかよくわからない草とかそんなものを片手に鼻歌交じりでうろついていますが、定職についていますし地域のボランティア的なものにも参加しています。
放浪に伴う鼻歌はINUのフェードアウトって言う曲のサビ部分を延々繰り返す形ですがそれすらかなり曖昧な感じで、お前のフフンフフェイドフフーンみたいな曖昧の出来損ないの感じです。
その勢いで食べれそうな草をサーチアンドインポケットし続けて家に帰ります。家に帰ると母さんが寝ていますので基本起こさないように部屋に帰ります。大切に育ててくれた親に草を食うほどひもじいと思われないためです。
どのみち山程菜の花を持ってうろつく姿をワンシーズンに5~6回見られてるのでどうということはないのですが、最悪の場合台所の使用を禁じられそうになるので念のためです。
泥も落とさずにポケットいっぱいの野蒜を持って帰った時はなんか般若みたいな顔してましたよ。その後野蒜をアテにクソほどビールを飲んでゲーゲー吐いてた時は菩薩のような顔をしていました。
そして食毒があるものを調べて食べるのです。基本的に揚げるか漬物にして食べます。食毒不明なものも食べてみます。
スズメウリの未熟果とか冒険でした。ネット見てると毒とか書いてあるのもあってすごく迷いましたが、園芸種とごっちゃになってるみたいなので塩漬けにして食ってみました。
固くて固くて種がべらぼうにデカいピンポン球大のキュウリでしたね。種を抜いてピクルスとかだと食えるかもしれません。
一番デンジャラスだったのはすごく美味しそうに見えたので出先でかじったのが水仙だったことです。カンゾウのたぐいに見えたのです。腹が立つほど苦かったので、腹を立ててその日は帰ったのですがしばらくしてそこに水仙が咲き誇ってました。
それ以来はちゃんと調べるようにしています。

こんな話を飲み会の席とかで話すとスベリ知らずではあるのですが、ほのかに、しかし確実に引かれているのを感じます。自分としてもなぜわざわざ道端に生えているものを食べたいと思うのかわかりませんでした。
しかし最近少しわかりました。この行為は、世界と自分の関係について確認するためのイニシエーションではないかということです。
つきなみではありますが、切り身で魚が海を泳いではいないということは周知です。
しかし、実際に食という生命活動の根本が、世界に存在する生命の移り変わりであることを実感する機会は一般において偏っていると思って構わないと思います。
これは例えば家畜の屠殺を目の当たりにしても解消されない問題です。問題では無いかもしれません、ただの一要素でしか無いと言ってもいいかもしれません。
その、生命の移り変わりの一部として、世界と自分の関わりについての自分を認識することが出来ないということを解消するには”ただ偶然に自分の存在がそうできている”という捉え方をすることが必要でした。
世界によって作られて、世界を受け入れてただ存在していることを実感するために。世界によって、あるがままの存在を食べてみる行為が僕にとって”面白い”と感じたのではないかということです。

僕は人類が存続に持続可能なシステムを作り上げた時にあえて地球という世界の一要素を保護する意義はないと考えています。この星が人類だけになってそれでも永遠にやっていけるならそれでいいでしょう。
ただ、どのような科学を以ってして現在の宇宙観における熱量死を食い止めるかわからない今僕は趣味としての道草を食うことがとても楽しいのです。
永遠が無いのならば今を感じるしか無いのだと思います。変化の中で今囲まれている世界にうつつを抜かすのが、とても喜ばしいのです。

最後に、たんぽぽは外れなしですが漬物にはイマイチっぽいです。なんか苦いです。僕には嫌な苦味です。


散文(批評随筆小説等) 草食う Copyright 竜門勇気 2015-11-10 09:29:18
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