遠い日の物語
薫子

今日は、なんとなく或る風景を思い出した。

昔の早朝の特急にのる私は白いワンピースを着ていた。
初夏独特の早朝の日差しの中で、風はまだ涼やかで、乗る人もまばらな博多行き特急。

出発間際に五人の若い男性たちが楽器のケースを抱えながら乗り込んできた。

連結の扉のところから五人はこちらを見ながら何か話していたが、そのうちの一人の男性が私の隣に座っても良いかと話しかけてきた。


どうぞと言うと、彼は同乗の仲間のところにもどり、バイオリンのケースを手にもどってきた。「バイオリンですか?」何気なく聞くと、彼は満面の笑みを浮かべ、「そうです!そうです!」と答えて、名刺を出して私に手渡しながら「T交響楽団でバイオリンひいてます」と。


名刺を出されたので、私も当時の職場の名刺を出すと、出した私が恥ずかしいようなピンクの名刺。「まるで飲み屋のホステスかなんかの名刺みたいだ。」と思いながら手渡すと、彼は私の名前を何度も口に出して読み、「素敵な名前ですね」と。


それは、本当に偶然の出逢いで私はその人と1年ほどお付き合いした。とても穏やかで楽しく優しい人だったのに、何故かどうして別れたのかよく覚えていない。何となく彼が東欧に数年留学する話が出て結婚したいと言われ、まだその時はそんな気持ちもなかった私は結婚はちょっと‥と言ったところまでで何故か記憶は切れてしまっている。
その後、悲しい別れがあったのかもしれないが、何故か覚えてはいない‥


そして、彼は私の記憶から消えていった‥

いや、消えてしまったかのように見えた


次に彼の名を見たのは、それから10年以上も経た電車の広告。
シンフォニーホールでの年末公演の広告に第一バイオリンと書いてある横に彼の名が書かれていた。

ああ、頑張っているんだ。

私はとても感慨深く彼の名前を何度も見ながら思った。
彼は変わっただろうか?

私は電車を降りるとチケット屋に向かい、演奏会のチケットを購入した。

おんぶに抱っこで子育てしてたその頃、おしゃれして私は二階のあまり目立たない席を取り、演奏を聴きにいった。

昔、聞き慣れた彼のバイオリンの音色は、さらに丸みを帯び素敵な旋律を奏でていた。
皆と弾いていても彼の音色だけが私の耳には届く。

聴いていて、私は満ち足りた気持ちになった。


心に浮かんだ言葉は


ありがとう


あんなに優しい時をくれてありがとう。


そして、今


疲れていた私を癒してくれて


ありがとう


貴方に言える言葉は他に何も見当たらない。


ありがとう。


以前より自信に満ちた彼の風貌と深みのある演奏が時の流れを私に知らせる。


彼はそこに私がいることは知らない。
お互いにとってわたしも、彼も、幻でしかない
それは、過去の幻であって、現実には存在しない。


その幻の二人が出会った日の姿のままホールで笑いあう姿が一瞬目の前に現れ


スッと消えていった。



午後から降り出した大粒の雨音を聴きながら、ふと思い出した遠い日の物語。


散文(批評随筆小説等) 遠い日の物語 Copyright 薫子 2015-11-09 01:32:46
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