悲しみの透明なあり方
あおば

私の母は80歳を過ぎた頃から短歌を作り出した
はじめるには余りにも遅いよと
言いたくなるほどであったが、
それにはやはり動機はあったように思う
1. 大岡信の折々の歌を読んでは切り抜いて
赤い小さな塗り物の小箱に入れていた
日々の蓄積が書くレベルに近づいていたのかもしれない。
2. 幼馴染が何十年ぶりかで便りをよこし、それには私家版の短歌集が同封してあった。
私だってと生来の負けず嫌いに点火したであろうことは間違いない
その短歌集は何十年にも及び日々の感慨が素直に綴られており
技術に頼らぬ作り物で無いその人のそのものが表現されていたが、
しかし、決して上手では無く、母がこれならば私にも書ける
と思ったほど技巧のない素朴で具体的な表現そのものであった
そして、こっそりと書き出し、10何年後にあの世に行った
このことを知っているのは私だけで、いつか、法事の時にでもごく親しい人に配ろうと思いながら10年が過ぎた
大岡信展が世田谷文学館で開催されているから、母の供養もかねて出かけようかと思っていたので、このタイトルは少々厳しいところを突いていて
透明感に乏しい母とその幼馴染の歌は中空に漂うしかないのだろうか
それともそれらを読んだ子の私が負うべきなのだろうか
いつか、透明な詩を書く人が私の言葉は雑音に満ちていて、言葉から泡出すようにぶつぶつとノイズが放出し続けていて、多様なイメージが読み取れると、上手に言い繕ってくれたのを思い出す
地名論の彼の朗読でも聞きなおし、気持ちを若くして鈍い感受性を鋭くして透明感を育てなければならないなと書きながら思っている


初出「即興ゴルコンダ(仮)」
  http://golconda.bbs.fc2.com/
  タイトルは、はかいしさん。






自由詩 悲しみの透明なあり方 Copyright あおば 2015-11-01 22:55:53
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