マゼンタ

一仕事終えた様な充実感でいっぱいで、僕は車のソファに深くため息をついて腰をおろした。泥まみれで爪の間に土の入った指でステレオをつけてザッピングすると、古いジャズボーカルや落語や人生相談が流れてきたがすぐにそれを消した。
すでに夜になっていた。
視線を落とすと足元には黒土と落ち葉が散乱してしていた。おまけにスラックスの膝のあたりが真っ黒な泥にまみれていたので驚きのあまり立ち上がろうとして天井に頭をぶつけた拍子に何かがフロアマットに落ちた。鈍い光を放つそれをつまみ上げ、外灯の光で照らすと、それは少し歪な形をした鍵のようだった。

午前十時少し前から午後六時まで、休憩を挟んだ実働七時間、僕は巨大な蝶の描かれたキャンバスの横にただひたすら立ち続けるというアルバイトをしていた。絵画に触ろうとする不届き物に注意を促すのが、僕の仕事の目的だったが、この美術館に限ってはそのような事は今のところ一度もない。
それにしても、だ。それにしてもこの絵は美しい。実に素晴らしい。

「徹君、そろそろ次の展示会の事を考えてるんだけどね」
「次の?」
「ああそうだ。北欧の新進気鋭のアーティストなんだけどなかなか面白いと思って」
「そうですか。でも僕、今の絵画展とてもいいと思います。なんていうか、独特で、妖しげで、何しろ観るものを惹きつけるというか」
「ああ、そう」
「そう少し続けてみるべきです。勿体ないですよこれで終わりなんて」
「そうは言ってもねぇ、実際もうあんまり人が来ないし」
「館長ちょっと待って、ちょっと待ってください、館長にとって芸術品って何ですか、絵画についてどう思っているんですか」
「あのね徹君、芸術をなんだと思ってんの。私はこの美術館の館長をしてる。私が芸術だと言った時にそれは石ころでも芸術品なのわかるよね」
「展示をやめたら?」
「石っころだね」

許されない。あってはならない。僕にとってあの巨大な蝶の絵は真実であり善なるものでありそして美の象徴なのだ。館長は完全に頭がおかしくなってしまった。哀れなものだ。芸術は誰のものかって?決まってるじゃないか鑑賞する者のためじゃないか。

僕はいらいらして長く伸びた爪をぎりぎりと噛んだ。
そして再び巨大な紅い蝶の目の前に立っていた。
「愛しているよ」
そう言ってキャンバスの表面を触った。少しくらくらするのは独特な匂いのする有機溶剤を肺の奥深くまで吸い込んだせいだろう。蝶の腹のあたりに頬を当ててみる。そう、思った通りだ。なだらかに盛り上がった油絵の具の蝶は徐々に立体的になっていった。
「さぁ、こっちにおいでよ。怖がらないで。君は本当に綺麗」
スラックスのポケットの中に細長く鋭い何かがあった。どうしてこんなものが。まあいいや。さぁ、こんな狭いところにいないで、すぐに出してやるよ。ポケットからカッターナイフ取り出し、思い切りそれを切りつけた。切って切って切り刻んだのだ。するとどうだろう、蝶は微粒子のような麟粉を撒き散らし見事なまでの赤のグラデーションの羽をひろげて悠々と僕の頭上を飛び始めた。

「おい誰だ、何をしている!」
振り返ると見覚えのあるよぼよぼの爺さんが立っていた。
「ちょっと、見てくださいよ、今ね、僕、蝶を逃がしてやったんですよ」
「お前自分が何をしてるのかわかってるのか、大切な絵をこんな、、台無しにして」
「台無し?何故ですか、たった今、美は解放されました。完璧です」
「何が完璧だ。紙屑同然だこんなもの」
「紙屑だって?これが紙屑なものですか、いいですか館長、蝶はいわば僕によって認められた美です。そんな事もわからないなんて、僕は悲しいな、本当に悲しいです。現に蝶はいるじゃないですかほら、ここに」

はい、名前は田崎徹で間違いないです。その後ですか?何がどうなって自分が今ここにいるのかが正直よくわかりません。多分、、、多分いろいろと夢中だったから。手がこの通り泥だらけなんで洗いたいなぁ、だから何にも覚えてないんでよう。鍵?あ、その小っさい鍵は美術館の鍵。おじいちゃんの遺品です。






散文(批評随筆小説等)Copyright マゼンタ 2015-10-19 00:47:29縦
notebook Home 戻る  過去 未来