悲鳴
島中 充

    悲鳴
二〇〇三年、高田信也は仕事の都合で夜中、実家から眠っている小学三年生の娘を連れ、堺から岸和田の自宅に臨海線を通ってカローラで帰る。羽衣に差し掛かると右手にステンレスパイプが林立している。高い煙突から炎をあげ、水銀灯に照らされプラチナに輝く夜景、石油化学コンビナートが眼前に浮かび上がってくる。堺泉北臨海工業地帯は空に浮かぶ要塞のように見えた。隣接して浜寺公園があり、コンビナートと公園の間を臨海線は走っている。臨海線には信号が少なく、昼間はコンビナートへ行く大型車両で混み合った。真夜中になると急激に通行量が減り、ここぞとばかり暴走族が現れた。
その日も信也の車両の前を二人乗りのオートバイはエンジンを吹かせながら蛇行し、ゆっくり進んでいた。彼はブレーキを踏み、追い越さないように注意しながら進んだ。追い越したりすると奴らは必ず絡んでくる。嫌な奴に出会ったものだ。他に車は走っていなかった。八十メートルほど先で不意にオートバイは向きをかえた。彼の方へ蛇行しながらゆっくり逆走してきた。車のすぐ前まで来て止まった。絡んできやがった。仕方なく彼は車を停車した。信也のおびえた顔を見たかったのか、後部座席に乗っている茶髪が握っている角棒を、後輪のステップに立ち上がり、背伸びをしながら高く振り上げて見せた。信也はサイドポケットを開き、奴らから見えないように、いざと言う時のために隠してある手かぎを左手にきつく握った。以前、信也は暴走族とやりあい、棒で殴られたことがあった。それ以来手鉤を隠し持つことにしていた。凶器を見せてやれば何もしないだろう。来るなら来てみろと身構えてみせる事で何事もなく終わるだろうと彼は思っていた。身構えるまでもなく奴らは何もなかったようにまた向きをかえ蛇行しながら、ブゥー、ブゥー、と吹かして、その先にあるS字カーブの方へ進んでいった。やっと終わった。ほっとして振り返ると後部座席で眠っているはずの娘はおびえ、目を大きく見開いていた。奴らは娘を見て絡むのを止めたのかもしれないと信也は思った。
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二十五年前、一九七八年、信也は真夜中、暴走族のたむろする浜寺公園に来ていた。彼は勤務する会社の工場長に頼まれ、同僚の竜男に危険なことをしないようにと言いに来ていた。馬鹿なことはするなと工場長が言っていると伝えに来ていた。水銀灯に照らされる臨海線のS字カーブは暴走族の舞台である。竜男は街頭レーサーを自認し、街中で競争する暴走族だった。街頭レーサーとは一般道で信号から信号までの加速とスピード、追い越しとカーブテクニックを競う奴らだ。公園に着くと竜男は黒い革ジャンの長い髪の女を連れていた。背中を信也に向け二人はS字カーブのほうのレースをじっと見ていた。信也は女に後ろから近寄り背中を軽く叩いた。女はびっくりして、赤いルージュの口から「ああーううー」と声を発した。信也の勤める縫製工場はたくさんの聾唖者を雇っていた。彼女もそのひとりだった。工場長は笑いながらこんなこと言ったことがあった。「彼女たちは何も聞こえないから一生懸命働く、気にする物音はないから、よく働くよ、ミシンにくっ付いているタニシだ」信也はその冗談に不快なものを感じた。自分のことを言われたような気がしたのだ。自分も何一つ文句も言わず、工場長の言うがままにミシンにくっ付いている縫製工だった。タニシのようにくっ付いている日々であった。
竜男のほうに向くと、言われる事がすでに分かっていたのか、何も言わない前から「もうたくさんだ。」と手を振りながら信也の説教を拒んだ。「もうわかったよ。」竜男の口癖になっていた。カワサキ五〇〇の黒いボディーをペタペタ叩きながら、「こいつでなら死んでも本望さ。」そして水銀灯に照らされた黒い水路の上、カーブを指さし「あのカーブはよう、セコンドで八十まで引っ張るのさ、それが限界よ。」と言った。竜男はプラチナに輝く臨海線のS字カーブをレーサーのように得意にドリフト走行していた。見物に来ている若者達からいつも喝采をあび、ヒーローだった。「緊張は美だ。これしかない。これしかない」と言いながら見せびらかすように、女の細い腰を引き寄せた。所詮遊びの危険な行為、愚かだとわかっていても、信也はシュツとナイフで切りつけられたような嫉妬を竜男に感じていた。俺にだってやろうと思えばできるのだと信也は思った。

 一九七八年、現在のように暴走行為をさせないための凸凹は臨海線に作られていなかった。浜寺水路を渡る片側四車線のできたばかりの広い平らな路面は、S字カーブが逆バンクになっていて、外側車線から内側車線が下り坂になっていた。アウトからインにつんのめってカーブが始まり、インからアウトに公園の雑木林に突っ込むように終わっていた。レーサー暴走族にとってこの上なく危険で面白い場所であった。暴走する者、見物する者、つっぱった若者たちがコンビナートの水銀灯に群がる蛾のように上気した顔でたむろしていた。社会からドロップアウトした若者達の己れを誇示する場所であった。深夜、次々にオートバイや車高を落とした車でレースがはじまった。

 その日、竜男の競争相手はカペラロータリーだった。街道レーサーの四輪の走り屋だ。ロータリーエンジンの回転をあげれば、またたくまにタコメーターは八千を差し、時速二百を超える車だ。側道からスピード違反を追いかける白バイのように、竜男は側道からスタートしいつものようにカペラを追った。恋人も二五〇ccでその後に追随した。竜男はイエローのカペラの車体のおしりに付き、S字カーブの外側車線に入って行った。サードからセカンドにシフトダウンし、スロットルを一杯まで吹かし、加速し、限界の時速八十キロまで上げた。体を左に大きく傾ける。恐れるな、怖がったらヤバイ。マシーンを目一杯傾け、左足だけを開いてバランスを取り、膝頭が地面すれすれに、マシーンのステップはアスファルトにこすれ、シュシューと暗がりに火花が飛んでいる。恐れるな、怖がったらヤバイ。竜男のみごとなコーナリングだった。カペラはキュキューッとタイヤをきしませながらコーナーを回っていた。バックミラーでステップから火花をちらしている竜男を見てカペラのドライバーはニタリと笑った。これでもついてこれるかと、最後の立ち上がりいっきに加速した。オートバイを引き離しにかかった。「あのカーブはよう、セコンドで八十まで引っ張るのさ、それが限界よ。」十分に判かっているはずなのに速度を上げ、着いて行くにはサードにほうりこむしかないと竜男は思った。これしかない、これしかないとクラッチを踏んだ。エンジンブレーキが切れた瞬間、限界まで張りつめていた糸はプツリと切れた。オートバイは横転し、ステップが地面に引っ掛かりスピンした。くるくる回転するねずみ花火のように火花をまき散らした。肉体を挟んだままアスファルトで肉はそぎ取られ、回転しながら雑木林のガードレールに激突した。頭から突っ込み、捻じ曲げられた鶏頭のようにフルヘルメットはあらぬ方を見ていた。後について走っていた女はオートバイをそのまま横倒しに投げ出した。竜男に駆け寄った。彼女の脱ぎ捨てたヘルメットはアスファルトに跳ね返りカランと乾いた音を立てた。覆いかぶさるように彼にしがみついた。言葉にならない悲鳴で声の限りに呼んだ。恋人の名を。
「あーあーうーうー、あーあーうーうー。」

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信也のカローラは竜男の逝ったプラチナに輝くS字カーブにさしかかった。オートマのドライブDからセコンドにシフトダウンした。外側車線から内側車線へブツブツという凸凹の揺れを感じながら加速していった。かつて、工員のタニシであった頃の鬱屈した思いがよみがえってきた。あーあーうーうー悲鳴が聞こえて来る。竜男の死に様が頭をかすめた。なにもかも壊れてしまえ。オートバイの奴をひき殺してやりたいという殺意がフツフツと湧き上がってくるのを感じた。娘を乗せたまま、アクセルを踏み込み、加速させていった。





散文(批評随筆小説等) 悲鳴 Copyright 島中 充 2015-10-12 20:18:11縦
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