Miz 8
深水遊脚

 夜に喫茶店に誘われるというのも珍しいし、この時間に開いている喫茶店も珍しい。ここに誘った男が力説するこの店のよさについての話に、大袈裟な相槌で新鮮な驚きを演じながら聞き入る振りをする私を、さっきからマスターが笑いを堪えながら見ている。 マスターが笑いたいのも無理のないところ。できれば私も外野になって笑いたい。ここは私の行きつけの喫茶店。私のコーヒーチケットも壁に貼ってあり、珈琲豆は必ずこのお店で買う。 私の好みを見抜いたセンスは認めるし、認めてもらいたい気持ちは一目で分かるけれど、好みの店を私が愛用している可能性を考え、実際に気付くことはそう難しいことではなかったと思う。私から伝えてもよかったけれど、そうしたくない気分だ。今夜だけなのだから、気持ちよく語ってもらえばいい。

 注文も彼に任せてみたが、浅煎りか深煎りかの好みだけ聞かれて、深煎りと答えたらストロングブレンドを注文するという雑な扱い。最初は自分の好みを探すためにブレンドがいいよ、深煎りが好きならこれがおすすめ、騙されたと思って飲んでごらんよ、というあやしげな初心者むけ指南がついた。自分はちゃっかり好物のモカイルガチェフの深煎りを頼むというマイペースぶり。メニューはないけれどガラス瓶に入った珈琲豆が7種類あり、好みやその日の気分を伝えるとマスターが珈琲豆を提案してくれる。そんなやりとりもこのお店の楽しみなのに。新鮮な驚きの演技もやや散漫になってきた頃、急に照明が暗くなり、注文したストロングブレンドが来た。隣にはカフェロワイヤルスプーンとブランデーの小瓶。モカの深煎りを頼んだ彼にも同じセットがあった。マスターが手際よくスプーンに角砂糖を乗せてブランデーをかけ、柄の長いライターで火を点けた。私の分を点火したとき、マスターが目で話しかけた。

(テンションのあげ具合はどうされますか?)

(並盛で。)

目で即答した。辛うじて溜め息を噛み殺して、ムードに酔う演技で目を細めて炎に集中した。グルだったな!心のなかで軽くマスターに毒づいた。彼に促されてスプーンを裏返して、目を少し開いて彼を見て、ありがとうと軽く伝えた。このサプライズだけは彼の頑張りを誉めてもよかった。もう少し柔軟にこちらの気持ちを汲んでもらったなら少しは心地よく酔えたのに。気合いのほどはわかった。でもこの先どの面提げて私を口説くつもりだろうか。将来彼が出会う女性のために、彼に向けた辛口の助言をあれこれ思い浮かべ、身構えていたところに、マスターが古びたノートを持ってきた。

「よろしければ今日の記念に言葉をこのノートに綴ってみませんか。詩の好きなお客様が多くいらっしゃいますので、誰からともなく始まったノートです。カフェロワイヤルを注文されたお客様皆さまにお勧めしております。」

 気が進まない彼の様子を見極めて、さっとノートを手にとって読み始めた。つたない詩が殆どだったが、ひとつひとつ手触りを確かめる言葉の綴りかたが心地よかった。一通り読み終えたあと、書き加えた。


「置き手紙」

私を知る前に
知る人のように振る舞う
青く透き通った焔は
私ではない誰かのため
宛先のない空間のため

疑問符の使い方を覚えたら
目を閉じて本当の闇に向き合って
誰かを求めないで歩みを止めないで
いつの間にか隣り合わせた人に
何も奪うことなく語りかけてみて


鮎川紫乃



書き終えて彼に手渡した。彼の顔は分かりやすい。どうやら私の気持ちは伝わったようだ。

「素敵な焔の演出をありがとう。私に支払いをさせて。」

答えは聞かずにマスターに声をかけて支払いを済ませた。帰りながらいつも珈琲豆の注文に使っているアドレスにメールを打って、今日のことを問い質そうとしたが、打っている途中で気持ちが醒めてきた。好きな女性がいて、思いを告げるために彼はお店に相談して場の雰囲気を盛り上げてもらった。そんなマスターと彼のやりとりに全く落ち度はないのだ。彼は彼なりに好きな女性のために張り切ったし、マスターはお店としてそれを応援した。たまたま彼の意中の女性がこのお店の常連客である私だった。そして彼のアプローチの仕方は私と相性が悪かった。それだけのことなのだ。


 ところでノートのなかに気になる詩がひとつあった。


鈴の前だから
見せられない
すぐ鈴がくる
待てまずいだろう

まだ歪みは残り
素肌とはいえない
ままよママとダンス
仮名にして名を消せ


すぐには意味のとれない、引っ掛かりのある言葉だった。なにかの暗号だろうか。最終行の「仮名にして名を消せ」が鍵だろう。とりあえずそれ以外の行を仮名にしてみた。


スズノマエダカラ
ミセラレナイ
スグスズガクル
マテマズイダロウ

マダヒズミハノコリ
スハダトハイエナイ
ママヨママトダンス


そして名前の「ス・ダ・マ・ミ・ズ」を塗り潰してみた。

●●ノ●エ●カラ
●セラレナイ
●グ●●ガクル
●テ●●イ●ロウ

●●ヒ●●ハノコリ
●ハ●トハイエナイ
●●ヨ●●ト●ン●


長と短の組合せ。思い付くのはモールス符号だ。一行ごとに解読していった。

ツー トン トン(D)
トン(E)
トン ツー(A)
トン ツー トン(R)

ツー ツー(M)
トン トン(I)
ツー ツー トン トン(Z)

DEAR MIZ


やはり意味は分からない。スダマミズという名前で暗号を解いたとして、MIZ はスダマミズのニックネームか何かだろうか。本名を鍵にしてニックネームを導くというのもナンセンスな気がした。そもそも私はスダマミズなんていう名前を知らない。なぜ何の疑問もなくその名前を思い付いたのだろう。しばらく考えたが、誰かが宛名を隠すために必要な言葉だったのかもしれない。その名前の人だけが自分宛のメッセージだとわかる。そういう言葉だと考えれば腑に落ちた。そうなると不可解なのはこの詩ではなく、なぜ鍵となる名前を私が思い付いたのかということだった。

 翌々日の夜にお店に行ってみた。先日の告白演出の件でマスターは軽く詫びをいれてきた。まさか彼の意中の女性が私だとは来店時まで夢にも思わなかったらしい。私は苦笑いして、珈琲豆200gで手を打った。見世物として楽しんだのだからこれくらいはお代として貰ってもいいだろう。もっと普通の豆でよかったのに、マスターは一番高いハワイコナを用意してくれたので、私の機嫌も直ってきた。その滑らかな口で聞いてみた。

「知り合いかお客さんのなかに、スダマミズ、という人、いない?」
「さあ、聞いたことのない名前だけれど。それに知っていたとしても教えることはできないよ。何で?」
「ううん、知らなければいいの。一昨日ノートをみていたら、その人の名前が出ていた気がしたから。」
「僕が自慢することでもないんだけれど、そのノートの詩、けっこうレベルは高いみたいだよ。」
「そうなのか。私、書いて良かったのかな?」
「いい線じゃない。男を振るための詩にしては。一人だけれどこの詩、誰が書いたんだと聞いてきた人がいたよ。」
「そっか。私も満更でもないわね。」
「詩を極めるにはストイックさが足りないかな?」
「はい、はい。」

ノートをめくりながら適当に会話を合わせていた。

 おかしい。

 「スダマミズ」の鍵で解いた例の詩がないのだ。前後にあった詩は覚えている。ひとつは「湖」というタイトルの何だか主体のフラフラした詩、もうひとつは「砂糖の分量を間違えた」というタイトルのおのろけ短歌5首。

(本当にレベル高いんだろうか)

そんな突っ込みもしたくなるがそれはさておき、その作品の間にあのときは見なかった作品がある。カフェロワイヤルを一人で嗜む、思い込みの激しそうなおそらく男性の書いた詩。この詩のことはどうでもいい。そこに確かに、仮名にして名を消せと命じるあの詩があったのだ。

「それは紫乃さんの見間違いじゃないかな。僕はけっこうこのカフェロワイヤルの詩、気に入っているし。それに、いま教えてもらったような詩はみたことないよ。僕も詩が好きだからこのノートは時々読み返すけれど。」

詩が好きなこのお店のマスターがこう言うのだから間違いはない。あの詩は存在しないのだ。それなのに私の記憶にはっきりと残った。

 考えてみれば不自然なことばかりだった。わりと記憶力はいい方だけれど、一言一句覚えていたというのも他に経験がなかった。そのうえ、仮名に直して鍵をもとに消し込みをかけて、現れたモールス符号を解くまで記憶の乱れがなかった。会計や監査にも関わっていて、いま丁度会社の不透明な金銭の流れについて調べている。そんな仕事をしている私なのでどこに何があったか順番で覚える記憶力は必須なのだ。それにしてもこの詩に関する記憶は鮮明すぎた。鮮明すぎて、似たようなことが監査で起きたならば誰かの誘導や印象操作の可能性も考えるべきだろうと思った。この詩に関してはそもそも私に無関係なので、それ以上の詮索は一切やめた。ノートはマスターに返した。

 カウンターにある名刺サイズのショップカードのなかからひとつ選んで手に取った。「フィットネス倶楽部 Ichida」と書かれていた。 運動の必要は感じているのだけれど、 この場所からは少し遠いし、仕事帰りに寄るには不便な場所にあった。クラブでの人間関係も一般に煩わしいときく。もっともマスターの話ではここの評判はいいようだ。気が変わったときのために、ショップカードをひとつ頂いた。


散文(批評随筆小説等) Miz 8 Copyright 深水遊脚 2015-10-10 18:46:03
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