公務員に成れなかったコックローチ 
島中 充

 中島恭二(島中充)
          プロローグ
気が付くと四角い格子の箱に入れられ菫の花に囲まれた駅前広場にいた。衣服を脱ぎ、こげ茶のタイツをはき、海水パンツをはき、広げると蝙蝠のようになるこげ茶色の大きな布を両手に巻き付けていた。びしょ濡れで寒く、白目をむき小刻みに震えていた。若者は周囲を人々に取り囲まれ、指さされ、みんなから笑われていた。地面にへばり付いている巨大な人間の顔を持つコックローチに変身していた。何をしているのだ。一体どうしてこんなことに成ったのか。頭は薄ぼんやりとして、仰向けによだれがひっきりなしに出た。目がきらきらまぶしい。そうだあの社長に貰った脱法ハーブのせいだ。ドラッグのせいに違いない。若者は後ろ足で立ち上がり、まえあしで格子をつかんだ。おもいっきり布をバタバタさせながら顔をくっつけ格子をゆすった。
おれは何をしているのだ。どうして閉じ込められているのだ。子づれの母親が一番前で愉快そうにそれを眺めていた。つないだ手をギュッと握って怖がっている子供に微笑みながら言った。
「勉強しないとあんな風になるのよ。勉強して公務員に成るのよ」
公務員が一番と専門学校のコマーシャルがこの地方では毎日のようにラジオから流れていた。公務員、その言葉で若者は自分がこうしている理由をやっと総て思い出した。そして寒さとドラッグせいで突然こみ上げて来たものがあった。若者は母子の足元におもいきり嘔吐した。

火山灰が雨のようにふりしきるこの地方では公務員になることが一番の良き就職口と思われた。公務員はノルマを課せられ、競争させられることもなく、言い訳だけをしっかり考えておけば、それでやっていける楽な職業だ。五時には帰宅でき、給与が保障される。安楽に生きようとする者にとって一番良い就職先だ。だがその狭き門をほとんどの若者は通ることが出来ない。リーマンショックとそれに続く円高で企業は少子化の日本を見捨て、海外に出て行き、正社員の就職口はどんどんすくなくなった。ソニーが巨額の赤字に苦しみ、シャープは三兆円、パナソニックは八兆円の売上高、日本を支えてきた企業が潰れかけていた。二・五兆円の売り上げだったサンヨーはすでに切り売り解体されてしまった。フリーターと正社員、とんでもない給与の二極化が若者達を襲い、年収二百万以下のワーキングプアが増え、結婚できない若者が増え、ますます少子化になった。そして、地方は補助金と既得権益で金だけを要求し、新しく産業も興らず、ますます疲弊していった。日本の農水産業の総生産は八兆六千億しかなくパナソニックの売り上げとほぼ同じであった。年寄の年金、医療費、補助金で中央政府だけで九百兆の国債を発行し、ひ孫たちが返すことに成る六十年国債発行を財務省は計画した。その上に地方債残高は百四十兆あった。日本はどうしようもなくどん詰まりであった。
――そして、***大学には就活の帰りの夜行バスを転倒させる若者が現れた。何度受けても就職の内定が貰えない。東京や大阪にこの地方から面接に行くと一回五万円以上かかった。落人の五家荘から出て来て、掛け持ちのパートまでしてお金を稼ぎ、大学に行かせてくれたお母さんに申し訳ない、すまない。家族のみんなにすまない。リクルートスーツの学生は今日もダメだったと、百キロで走っている東京から帰る夜行バスのハンドルを運転手からうばい「みんな死ぬんだ。死ぬんだ。」とおもいきり左にハンドルを切り横転させた。十二人が負傷した。幸い死者はなかった。――        
(20**年2月27日の新聞より )
 その後、逮捕されていた学生は心神喪失で不起訴となり、統合失調症で2か月間入院した。
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コックローチマンは公務員試験を受けたが受からなかった。倍率は四十倍を超えていた。大阪や東京の企業も全部だめだった。就職先がなかった。しかたなくコックローチと言う殺虫剤をつくるこの地方の冴えない業績の小さな会社に応募した。お金がいるので働かなければならなかった。面接で当社を受けた理由を聞かれ、幼い頃の話をした。「小学三年生の時、友達の家に行くと土間のテーブルのうえに小皿に米粒大のふわふわした桃色のものが二、三十個乗っていた。ゴキブリが食べれば死ぬコックローチと言う薬剤だ。家の奥にいる友達に『あそぼー』と呼びかけながら、土間のテーブルの上に置かれているそれが目に入った。貧しい家庭でお腹が空いていた。甘いものが欲しかった。皿に乗っているのだから食べ物に違いない、お菓子に違いないと思って、急いで掴んで食べた。味はなかった。丁度その時友達が奥から出てきた。慌てて、その場を一目散に逃げた。しかし友達はしっかりと見届けたと見えて、次の日、学校でコックローチを食べていたと言いふらされた。その日からみんなからコックローチとあだ名で呼ばれるようになった。」
社長はこの話がおおいに気に入ったらしかった。勤め先がすぐに決まった。コックローチと言うこの会社ではなく社長のやっている広告宣伝の会社にであった。くまもんのぬいぐるみが流行っていた、同じようにぬいぐるみでコックローチマンに成って宣伝することだった。茶色の羽をつけ茶色のタイツをはき、茶色の海水パンツを身に着け、前のふくらみの上に白色で「害」おしりに大きく「虫」と書かれていた。コンテナほどの大きさの木の格子の箱に入り、子供たちから殺虫剤と書かれている水鉄砲で撃たれるのだ。害と書かれた盛り上がった白い文字を子供たちはことさらねらって撃った。見ている大人たちが喜んでいた。「ヤラレター」と大声をだし、もがき苦しんで死ぬのが仕事であった。しかしこれは昼間の仕事で、本当の仕事はこれではなかった。
「給料は五倍やる、しかし誰にも言うな、内密だぞ。」と社長はゆっくり説明し始めた。
「私は先代の社長に認められ婿養子に入って今の地位にある。社長の娘がかわいかったから養子に入ったのだが、養子とはつらいものだ。思わん苦労がある。いまこの会社は先代の放漫経営で潰れそうなのだ。どんなことをしてもわが社の業績を上げ、立て直さねばならない。そうしないと社員は失業し、私の家族も借金を背負って路頭に迷う。それには一番手っ取り早いのは、町中に、たくさんゴキブリがいて、うちの会社の薬剤が飛ぶように売れることだ。そのために君に家を用意する。その家で君はゴキブリを育て、繁殖させ、夜中に車でそこらじゅうにこっそり撒くのだ。ゴキブリだらけの町にするのだ。すばらしい考えだろう。これを思いついた時、これだと思い飛び上がった。だがこれしかない、やるぞと心を決めるまで大いにためらった。神社に行き、天照大御神に何度も祈ってやっと心を決めた。同じことをして大儲けしている奴はほかにも沢山いる。戦争を画策する武器商人、利益をねらって予算を組む役人、インサイダーで大儲け。役人や為政者は自分たちに都合のよい法律ばかり作っているではないか。やるしかない、そうだ私にも神風が吹いたって良い。神国日本の神風だ。毎日拝んでいるではないか。おお儲けが出来るぞ。」
「そんなことをして、捕まらないのですか。」と若者はやはり尋ねた。
「捕まらないように細心の注意を払ってやるのだ。捕まってもどんなことがあっても、私や会社の名は出すな。給与は五倍やる。捕まったらこのように答えるのだ。自分はゴキブリが好きなので、花壇に花々を咲かせ町中を花で一杯に飾りたい人々のように、自分はゴキブリがすきで町中をゴキブリで一杯にしたいだけだ。蛍を繁殖させ撒いている奴もいるではないか。何が悪い。ごきぶりを見て悲鳴を上げながら逃げ惑う主婦のテレビコマーシャルがあるだろう。あれは大嘘だ。本当は、ごきぶりが人間を見て、ギャーと悲鳴を上げて逃げ惑っているのだ。箒でペチャリとたたきつぶそうと追いかけているのはいつも人間の方ではないか。ニンゲンのほうがはるかに悪辣だ。自分はゴキブリ方がずっと好きなのだ。」と社長は言った。
 若者はとんでもないと思ったが、その仕事を引き受けることにした。引き受けるしかないと思った。お金がいるんだ。仕事がいるんだ。心の奥底で世の中など、どうにでもなれと思っていた。就職できるなら。お金が貰えるなら。母親も家族もきっと喜ぶだろう。就職先も決まりみんな安心するだろう。
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用意された海岸近くの一軒家に行くとそこには地下室があった。床の上に持ち上げるマンホールのふたのような入口が作られていた。人ひとり通れる梯子のような木の階段を降りていくと天井は低く、すでに豆電球の付いている薄暗い部屋があった。床には数十匹の黒く動くものがいた。あいつらだ、いるぞ、と若者は思った。階段の横にあるスイッチに手を伸ばすとその腕に舞い降りてくるものがあった。思わずそれを振り払い、スイッチを入れた。その時、真っ黒な天井が一斉に動いた。まるで蝙蝠の舞う洞窟のように、部屋中を黒いゴキブリが群れ飛んだ。羽音がパタパタと凄まじい。羽ばたきで部屋の空気がふるえた。湿度も室温もむっとするほどたかく 牛糞の匂いがした。床には排泄物が黒く湿って溜まっていた。きっと社長はすでにゴキブリを住宅地に、人の住む所にまき散らす仕事をしているに違いないと若者は思った
次の日から若者はその家に住みついた。そこにはすでに生活に必要なものはだいたい備えてあった。鍋釜から寝具、色々な工具、お米もあった。社長の指示どおりご飯を炊き、幾つもの盆のうえに平たくのばしてゴキブリにあたえた。盆一面に白い米粒がみえなくなるほど、ゴキブリは真っ黒に群がった。下腹部が呼吸するようにゆっくり膨らんだりしぼんだりしていた。くるくると長い触覚を一斉に鞭のように振りまわしている。喜びに羽をパタパタさせながらむしゃぶりついて食らっていた。耳を澄ますとジィージィーと歯ぎしりするような音が聞こえた。食べ物に群がっているゴキブリの歓喜の声だと若者は思った。よく見ると羽根やふっくらとした腹部は艶やかにこげ茶色に輝いていた。人々を驚愕させ、正視できないほどのおぞましい美しさがあった。生きている物の持つ艶、神々しい生き物だと若者は感動さえした。
若者は地下室から出て上の部屋で眠ることにした。押し入れから薄汚れた布団を引きずり出し、六畳の畳のうえに敷いた。ズボンをはいたまま布団にもぐり布団の中でズボンもパンツもシャツも脱いだ。脱いだものを布団から蹴りだして、素っ裸になった。ここに来る前にコンビニで買ってきた雑誌を開いて、性器を握り、いつものように眠った。浅い眠りだった。若者はかさかさという音で目覚めた。夜明け前の薄暗い中、目を凝らすと数匹のゴキブリが、ごみ入れの中の雑誌をちぎって丸めた紙を食べていた。それは前夜、手淫の精液を拭い取ったエロ雑誌の切れ端であった。若者はぎょっとした。自分の精液にゴキブリが群がっていた。気持ちが悪いと思った。しかし、そういう事なのだと納得もした。精液を食われ、その中の一つ一つの精子からどんどん赤子のゴキブリが生まれてくるような気さえするのだ。食べているのではなく交尾しているのだと言う気さえしてくるのだ。なんとなく宿命のつながりを感じるのだった。どうせ自分はゴキブリなんだ。小学時代コックローチというあだ名で馬鹿にされ、ずっといじめられた。中学校ではそのように呼ばれることはないだろうとあわい期待を抱いたが、あだ名の由来を知っている同級生がまたもや言いふらしてコックローチから呼び名がゴキブリに変わっただけだった。女生徒から薄汚いゴミ箱をのぞきこんでいる奴と噂され、彼が近づくと嬉しそうにキャーと女たちは「ゴキブリがいる。ゴキブリがいる」と逃げた。逃げ惑う小さな心しか持たないゴキブリ男は踏みつぶされないように、睨みつけることで精一杯、彼女達に反抗し、自己を守ろうとした。だが睨みつけるとそれがまた「気持ちわる―い、ゴキブリが睨んでいる」と言われ、一層彼女たちを喜ばせた。本当は自分をいじめる奴らの靴を靴箱から盗み出し、ゴミ箱に捨ててやればいいのだとゴキブリ男は知っていた。知っているだけでそれが出来ない人間だからこそいじめられるのだ。せいぜいできることは親や何もしてくれない先生に告げ口する事ぐらいだった。若者は昔を思い出すだけで身震いするほど腹が立ち屈辱感にさいなまれ、我慢ならなかった。今こそ仕返しのできる強い人間に成るのだ。ゴキブリを撒くことで少しは世間のいじめた奴らに復讐できるのだ。たとえ仲間のゴキブリが殺虫剤で殺されても、ペチャリとスリッパで黄色い内臓を床になすり付けられても仕方がないと思った。これはいじめた奴等への仕返しなのだ。復讐なのだ。ゴキブリを撒く仕事はやりがいのある、意味のある仕事だと気を奮い立たせ、きつく胸の前でこぶしを握った。
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虫かごにごはんを入れておくとゴキブリが集まった。真っ黒になった虫かごを幾つも持って、毎夜、軽自動車で真夜中の二時に出かけた。車の窓を開き、片手でハンドルを握り、運転し、片手で虫かごの戸を開いて振りながらばら撒いた。お前たちは自由だ、自由だと大声で叫びそうになり、若者はばら撒いた。「それ行け。それ行け」虫たちは月の光に黒光りしながら飛びたち、街灯のともる住宅街へアスファルトの上を素早く黒い群れに成って、ニンゲンの住む所へ走って行った。犬や猫の糞を食らい、ニンゲンの食べ残しを漁り、寝静まったニンゲンの枕もと、暗闇をゴキブリは駆け抜けるだろう。そう思うと若者はぞくぞくし、嬉しくてしかたなかった。
しかし、若者はやはりこんなことをして本当に良いのかと毎日心配もするのだった。警察に捕まるのではないかとひどく怖かった。警官に出会っただけで眠れない日が続いていた。そのことを社長に告げると
「もう気付いていると思うが、俺はこの仕事を以前からひとりでやっていたのだ。同じように怖くなった時これを吸っている。これでもやれ」と社長は言った。そして脱法ハーブの入った小さな袋を内ポケットから取り出して渡してくれた。  
脱法ハーブを吸うと平べったく体が床に押し付けられるように重たくなり、仰向きにひっくり返されたゴキブリのようになった。手足を空にばたつかせ、総てがゆっくり動いているようだった。自分が自分であることが分からなくなり、ニンゲンであることが分からなくなった。点けっぱなしのテレビの音が聞こえなくなり、ジィージィーと言う虫の話し声、あの歓喜の声が聞こえた。何を話しているのだろう。聞き耳をたてた。そうだ私を呼んでいるのに違いない。私を呼ぶ声だと若者は思った。ハァハァと息をしながら、よだれを垂らした。ゴキブリはくるくるとむちのように触覚を振り回した。頭を下げ小さな複眼で食べ物をさがして、裸の胸や腹の上を這いまわっている。顔の上を這いまわり耳の中を触覚で探ったり、においを嗅いだりしている。半開きのよだれの口の中に入り、若者は思わずプッと吐き出したこともあった。ときおりプツリと咬むことがあったが痛くはなかった。それにも慣れた。若者にこれまで恋人などいたためしはなかったのだが、これこそ恋人が爪を立てる愛撫、接吻のような愛にさえ若者は感じるのだった。若者は毎日毎日ドラッグを吸うようになっていった。
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二か月が過ぎた。分厚い給与袋を持って来て、そして、社長が若者に言った。
「近頃、夜中にゴキブリを撒いているやからがいるようだ。そんな都合の悪い噂が住宅地に立ち始めている。我々のことだ。もうだめだな。見つかる前に止めることにしよう。捕まる前に止めよう。十分に金は稼げるほどまき散らしたつもりだ。後は証拠を残さないように始末しなければならない。この家の地下に大量の殺虫剤をまき、あいつらを皆殺しにしてくれ。」
「あいつら?あいつらを殺すんですか?そんな可哀そうなことは出来ません。絶対に出来ません。かれらは私の大切な仲間です」と若者は答えた。
「そうか仕方ない、それなら俺がやるしかない」と社長は言い残してプイとそのまま出て行った。
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目を開いても目を閉じても、目の前がキラキラ光っている。薬のせいだ。結局この町にいては、殺虫剤でわたしの可愛い仲間たちは遅かれ早かれ殺されると思った。可哀そうに、仲間を助けてやらなければと若者は思った。いいや仲間なんかではない、それをはるかに超えた同志なのだ。復讐を誓い合った同志なのだ。愛情すら感じている同志なのだ。逃がしてやらねばと白目をむきながら若者は強く決心した。
その夜、ゴキブリのきらいなレモンのかおりの芳香剤を部屋の四隅から大量に撒いて、地下室から同志たちを追い出した。そしてコックローチマンの衣装に着かえることにした。同志よ!同志!と思った。書物に書かれていた人民解放軍を率いる毛沢東のような気持ちになった。今や、同じ形同じ色をした同志なのだと衣装を身にまといながら思った。涙がポタポタこぼれてしかたなかった。さあ出発だ、羽を大きくひるがえして若者はよだれを垂らしながら立ち上がった。
ゴキブリの館から東へ三百メートルのところに関門海峡の壇ノ浦があった。ここはかって平氏一族が源氏一族に滅ぼされ、女、子供までが切り裂かれ、海の藻屑となったいくさ場だ。数百の傷ついた遺体が浜に打ち上げられ、海の底に沈み、その屍に蟹が群がった。平家一族の武将の恨みが、怒りの顔となり、赤い蟹の甲羅に深く刻まれ、平家蟹と気味悪がられた。ここはたたりの海、幼帝や公達の怨霊のさ迷う海であった。しかし、現在、向こう岸まで数百メートルの海峡にトンネルや長大な吊り橋が架かり、九州と本州を繋ぐ動脈になっている。この狭い海峡を多くのタンカーが行き来し、青い鬼火のゆらめく海、たたりの海はとうの昔になくなっていた。
若者は大きく腕を振り上げ壇ノ浦を指さして「いくぞ」と声を張り上げた。道路は数千のゴキブリで埋め尽くされている。ゴキブリの大群は海峡の砂浜に向かって、津波のように進んで行った。路面は黒く揺れているように見えた。誰もいない広々とした道路を若者は茶色の羽をひらひらと羽搏かせ、先頭に立ち「行くぞ、行くぞ」と叫びながら走った。ゴキブリたちも羽を薄く開いて触覚を鞭のように振り回し急ぎ足に滑るように、若者について行く。波頭が白くみえる黒い海が彼らの眼前にいっきに広がった。月影が明るく、波に映ってちらちら月が輝いている。大きく息を吸うと磯の香りがした。ザァーザァーと聞こえ、潮騒が呼んでいると思った。彼は振り向き、拳をふりあげ砂浜で同志たちに檄を飛ばした。よだれがポタポタ砂の上に落ちた。
「君たちだ。君たちが世界を作る。未来を作る。海峡を越えろ。旅立ちだ。ああなんて幸せなんだ。」
ろれつが回らない。切れ切れの言葉になった。若者の周りを無数のゴキブリがイワシの群れのようにかたまって飛び回っていた。
丁度、壇ノ浦にはその時、ひときわ明るく輝かくおおきなフェリーが夜の海を航行していた。その上空をゴキブリの群れは本州の大地に向かって真っすぐに羽搏いていった。若い男女の修学旅行生の甲高い笑い声があたり一面、船上からひびいている。
そして、船下、冷たい水の中でひとりの若者が嗚咽していた。
        エピローグ
五日後、快晴の朝、海峡から見える四月の山並は桃色に満開であった。行きかう船が波を切り、白波の立つ青い海面に浮き沈みしているものがあった。茶色の布を扇型にひらいて、その真ん中に「虫」と言う白い文字が読めた。腐敗し、ふくらみかけたむくろが波間に漂っている。魚たちが群がりその肉を啄んでいるのだろうか、キラリと鱗を光からせる黒い魚影がしきりに周囲に見えた。
次の日、地方紙が小さく報じた。バスを横転させた統合失調症の若者が病院を退院したのち、ゴキブリの格好をして海に遺体で発見された。
 警官が若者の住んでいたという一軒家を、調書を作るために訪ねた。鍵は掛かっておらず、あたりに牛糞のにおいがした。家の奥の地下から強烈な鼻を突く死臭がした。階段の下にはパイプレンチ、殺虫剤用の大きな噴霧器と真っ黒なゴキブリに覆われた塊があった。コックローチ社の社長の遺体であった。社長はレンチで頭骨を砕かれていた。口や顔、むき出しの素肌や血糊に真っ黒にゴキブリが群がっていた。警官が耳をすますと、ジィージィーと歯ぎしりするような音が黒い塊から聞こえた。


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散文(批評随筆小説等) 公務員に成れなかったコックローチ  Copyright 島中 充 2015-10-09 22:20:40
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