月の民
dopp

アインは空を見上げていました。小高い丘にぽつんとたたずむ木の根元に腰掛け、紫がかった星空を見つめていました。
星々は輝き、それぞれが淡い虹色の光を落とし、仲間たちの上げる炊煙から離れてきたアインの影を、薄く彩りました。
アインは月の民でした。自分たちが一体どれほどの数存在しているのか、アインも数えたことはありませんでした。時折増え、時折減りながら、一緒になってさまよい歩くひとびとでした。この間は、陽が沈む頃にニクスがすっと立ち上がって遠くの闇、地平線をじっと睨みつけたかと思うと、黙って歩いて行きました。ヨナとリクトは、一つ前の街でアインのセンセイに拾われた子供達でした。そういう風に減ったり増えたりするひとびとでした。
アインはただ黙って空を見上げていました。薄っぺらな月が空に張り付いていました。あの月が、月の民の目指すところである月でした。ずっと、ずっとあれを追いかけ続けているのです。沈む気配はないようでした。昼でも夜でもおかまいなしに、真っ白に、途切れずに、刺すように光っていて、周りの星々の柔らかな光とは毛色が違うのがよくわかりました。
センセイが言うには、先代のセンセイもあれを追っていたと言います。ずっとあれを見続けていたから、目が潰れてしまっていて、毛馬の手綱にほとんどしがみついて歩くような人だったそうです。ある日突然、月が見える、とつぶやくと手綱を放してよろよろと行ってしまった、とセンセイは言いました。どうして追わなかったの、とアインは一応センセイに聞きました。なんとなく自分も、そうなったら追わないだろうな、とはわかっていましたが、聞いたのです。センセイは、わからないけど、ああ、行くんだな、と思ったから、追わなかったと言いました。アインも、僕もやっぱり、そうするだろうな、と思いました。
アインは月を追う暮らしを続けながらも、どうして月を追っているのか、いまいち分かりかねていました。そもそも、僕は一体いつから月の民になったのだったかしら、ということも思い出せずにいるのでした。
センセイに尋ねてみたこともあります。僕は一体どこでセンセイのセイトになったんですか、と聞きました。センセイは、歩いていたら、後ろにいたから、カジルトの実をやってみたら、付いてくるようになった、と言いました。ありそうなことだな、とアインは思いました。別にカジルトは今でも特別好きなわけでもないけど、あの赤くて小さい実をくにくにと噛むのは魅力的でした。結局それがどこで、いつのことだったのかはセンセイも覚えていませんでした。ただ、アインの背が今の半分くらいだったらしいので、うんと小さな時ではあるんだろうなと思います。
月がこうこうと、光っていました。周りはどんどん暗くなってきていました。丘から少し離れたところには、ぽつぽつと焚火が見えました。いろんな色の毛糸で織られた日よけ布が、四本の柱で作られた即席の、屋根だけのテントを作っていて、それと焚火が、アインから見える大地を、ぽつ、ぽつと埋めていました。
アインの左手側から、がさがさと草を踏む音が聞こえました。ヨナとリクトが、丘を登ってきたのでした。「何やってるの!」ヨナは言いました。丘に大きく響く声でした。ヨナはいつも怒ったように話す子でした。リクトは目の細い子で、黙っていました。
「月を見てたんだ」とアインは返しました。本当は、ほとんど月は見ていませんでした。ぼんやりと、月を目の端に捉えながら、見るような見ないような、月のことを考えるような考えないような、そんな風に月を見ていました。
「ご飯の時間だって」とリクトが言いました。アインはもう一度、今度は真っ直ぐに月を見ました。目が痛くなるような光で、そのくせ輪郭ははっきり見えました。嘘みたいに丸い、張り付いた月でした。アインは、「どうしてあの月は沈まないんだろう」とつぶやきました。空にあって、沈まないのはあの月だけでした。いつ見ても同じ、こうこうとした光を注ぐ月です。いつまでもいつまでも光っているくせに、追いかけ続けていて気がつくと、1日ぐるりといっぱいに大地をひとまわりしただけだったり、ジグザグに歩き続けただけだったり、とにかく動きがつかめないのでした。逃げられてるみたいだなとアインはよく思いました。
「ご飯だって言ってた!」ヨナは傷ついたように叫びました。ヨナはちゃんと月の民だなあ、とアインは思いました。アインが月を疑う事を、ヨナは嫌う子でした。リクトはどっちの味方をするようにも取れそうに、あいまいに笑う子でした。アインは二人が好きでした。それで、三人連れ立って、丘を降りることにしました。

自分たちのテント屋根に戻ると、センセイが焚火の側で灰色の倒木のかけらに腰掛けていました。焚火には粘土の鍋がくべられ、中では毛馬の乳粥が煮立っていました。センセイはアインの目を真っ直ぐに、鳶色の目を見張るようにして見ると、おかえりと言いました。センセイの目も、だんだん見えなくなっているのでした。アインが戻りました、と言うと、センセイは乳粥を杓ですくい、椀に入れて木のスプーンと一緒にアインに差し出しました。アインはそれを受け取ると、焚火を挟んでセンセイの向かいに座りました。ヨナとリクトも、粥をもらうとアインの両隣に座りました。
「食べなさい」とセンセイは言いました。いただきます、と三人は食べ始めました。アインはひとくち、ふたくち運ぶと、粥を見つめて固まりました。ヨナはそれに気づくと、不安なような、怒ったような声で叫びました。「アイン!」センセイはじっと見ていました。
アインはセンセイに尋ねました。「あの月はどうして沈まないんですか?」ヨナはびくりと震え、きっと地面を睨みつけました。リクトはゆっくりと、交互にアインとセンセイを見ていました。センセイは答えました。「わからない」アインは尋ねました。「どうして僕たちは月を追うんですか?」「わからない」センセイは答えました。アインはうつむいてじっと考え込みました。何回も繰り返した問答でした。その度にセンセイは目を見張って、真っ直ぐにアインを見ました。真っ直ぐな目でした。アインは顔を上げ、言いました。「でも追いつきません」センセイは答えました。「そうだな」アインはまた考え込みました。アインがもう一度顔を上げようとした時、ヨナが金切り声を上げて砂を焚火に投げました。三人はさっとヨナを見つめました。リクトが立ち上がると、ヨナの側にしゃがみ、とんとんと両手でヨナの肩を叩きました。ヨナは切れ切れに、弱々しく叫び終えました。
センセイは立ち上がると、テント屋根の下に向かい、横になりました。リクトはヨナを支えるように立ち上がらせると、テント屋根に連れて行きました。アインは片膝を抱えて弱まってゆく火を見つめていました。

月の民は、交易の民でもありました。この大地には街が散らばっていましたが、どの街の間にも道はありませんでした。月を追う内に、街の姿が目に映ると、最初にそれを見つけたセンセイとそのセイトたちが、ふっと群を抜けて街へ向かうのでした。他はそのまま、月を追いました。群れを抜けた一団は、街と大地の境目の、建物がまばらであやふやなところから入り、食料や雑貨を買い込むと毛馬にくくり、また同じように街から出て行きました。そこで再び月を追い始め、元の群れに合流するのでした。本当は、元の群れなんかではない、別の群れだったのかもしれないけれども、とにかく月の民に、合流するのでした。そうして買い込んだ食料雑貨を配り、群れに容れられるのでした。
大地を歩き回る月の民は、街の人々よりも多く、星の光を浴びました。星の光は、淡く美しい虹色で、光を浴びた後に服をはたいたり、髪の毛を振り乱したりすると、さらさらとこぼれて七色の砂になりました。それを遮光瓶に貯めておいて、街で食料雑貨と替えるのです。この砂は、ずっと淡い光を放ち続けますが、火や太陽の放つ灯りに照らされると、霧のように空気に溶け始め、消えてしまうのでした。街の人たちがなんでこんなものを欲しがるのか、アインには分かりかねることでした。食べ物の方がずっといいのにと思いましたし、だいたい街みたいな明るいところから離れればいくらでも手に入るものなのに、自分で取りに行かないなんて不思議だとも思いました。それでももしかしたら、取りに来ているのかもしれないけど、月の民にまぎれてしまうから気づかないのかもとも思いました。それだったら仕方ないなとアインは思います。なにせ誰が月の民で、誰がそうでないのかを見分けることはできませんでしたし、誰が増えても誰が減っても、全く気づかれなかったからです。街に行けばアインも砂と食料を替えることができましたが、街に住めるかというと分かりませんでした。砂を持ってくる月の民は所詮、お客さんに過ぎないのでした。街とはなんだろう、とアインは思います。街の限界ってなんだろう、とアインは思うのです。街が食料を与えてくれる場所だとするのなら、何故街の中に畑や牧場がないんだろう、畑や牧場は街の中にないのに、どうして食料を作り、売る人は街の住人なんだろう、と考えるのです。そして、食料を売る人は同時に、星の砂を売る人でもあるはずでした。と、するならば、星の砂を持ち込んでくる自分達も街の仲間なのではないのか、と思うのです。しかしそうではありませんでした。いつ訪れても街は、アインを迎えてくれているようには思えませんでした。さらに思うには、星の砂をいつも月の民は運び入れるというのに、街はいつ尋ねても、星の砂をすでに売っている、ということはないのでした。アインは星の砂の詰まった遮光瓶が、店の奥の影、食料を売る人の住む場所にどんどんたまってゆく光景を想像しました。そしていつの日にか、ひょんなことから虹色の光はなだれ、陽の光に触れた砂がさらさらと消えゆくと同時に、店主とその店も虹色の霧になってふっと空気に溶けるのでした。もしかしたら、もしかしたら店主さんはそうなりたいのかもしれないな、とアインは考えます。星の光と一つになって、空気に溶けて、それからあとはどうなるのだろう、アインには分かりませんでした。
ふとアインは、自分が街の人の事を何も知らない事に気が付きました。店を持っているわけではない街の人は、いったいいつもどこで何をしているのだろう。実は街の人も皆、街の人のような顔をしていながら、店主さん以外全員が、月を追う放浪生活と街での暮らしを行ったり来たりして、店主さんに星の砂を貢ぎ続けているのかもしれない…そう考えるのはアインの孤独を癒す愉快なことでした。とはいえ、アインは知る由も無いことでしたが、当然街のすべての人々が月の民である、という事はありませんでした。話はそう単純ではないのです。街の人たちはそれぞれ自分の事を、海の民、空の民、森の民、砂の民…と呼び、それぞれが他のどの民とも会ったと認識することのできないそれぞれの放浪を続けていました。月の民だけが特権的孤独と宿命、社会的差別と甘い劣等感を感じる集団ではなかったということであり、他の民の在り方と比べて特に選ばれた民であるというわけでも無かったという事ですが、だからこそ彼らが選ばれている、という証左でもありました。なぜなら彼らは、他のどの民でもなく、月の民だったからです。彼らは逃れようもなく月の民であり、他の民の在り方に混じる事はできませんでした。なんといっても、アインには他の民の心が読めなかったのです。月の民同士なら、読心はあると言っても過言ではありませんでした。その感覚が、月の民にとっては最も孤独で、最も狂おしく、胸の奥が、押されているのにせり出してくるような、人生そのものなのでした。それが無いというのは、あるいはアインにとって耐えられないものであったのかもしれません。少なくとも、月の民は、自分は他のどの人々と交流を長く続けられなかった、あるいは、続けられないだろうという感覚を持っているのは事実です。
ああ、とアインは思いました。何を考えているんだろう僕は。いったいこれが何の役に立つっていうんだ? だいたい、要するに僕は今寂しいという気持ちを、他にも見えるように表現している生き方をしているだけなんだ、とアインは思いました。それを見せられた他人は何を思えばいい? 救いの手を差し伸べるのか? 仮に差し伸べられたとして、それを僕は受け入れられるのか? おそらく馬鹿にされていると感じるだけだ。あんな、あんな街に生があったような奴には絶対に理解できないんだ、とアインは思いました。あの街に理解される、というのは、アインにとって、自我そのものを侵される事でした。今更になって、街の奴ら如きに善人面をさせてやるものか。奴らはもっとも共感能力が低く、人の心を解することができない、無知蒙昧の一般大衆に過ぎないのだ。読むのはいつも僕なのだ。僕が読まれる事はあり得ない。そうだ、とアインは思いました。読ませてなるものか。教導者は僕、保護者は僕だ。ライ麦畑の守り手は、常に一人なのだ。同時にアインは、守るべきライ麦畑の世界こそが敵だ、と思いました。奴らを永遠に、畑の内側に閉じ込めてやる。
アインはもう、自分が何故月の民になったのかを、忘れたのです。
アインの目には揺れる炎が映っていました。炎は形を変え、とぐろを巻き、燃え盛る蛇がアインの目前数十センチの所に浮かび上がりました。蛇は言いました。「お前の望みはなんだ」アインは答えました。「全ての人を守ることだ」蛇は消えました。
地平線の彼方から太陽が昇り始めていました。月を追おう、とアインは思いました。一人でも多く、月の民を増やしてやろうと決意していました。街の姿を、あるべき姿を、人の心を理解できない奴らの住まう所という姿を、より強固にしてやるんだ。月の民は、街の外に行くんだ。街に一人も、月の民を残してやるものか。僕たちは全員、月へと帰る民だ。アインの目に、真っ白に輝く、空飛ぶ帆船のイメージが浮かびました。帰ろう、と強く思いました。既に辺りは朝焼けて、強い光がオレンジ色をして、月の民が野営する荒野を染め上げていました。アインは夜の中にいました。アインはセンセイになりました。


散文(批評随筆小説等) 月の民 Copyright dopp 2015-08-16 01:06:23
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