水辺
伊藤 大樹

いつから夢見ていたのだろう。それもほとんどわからぬまま、夫の藤野の会話をまるで無音のコマ送りにしていた。シンクにぽたぽたと透明とも鉛色ともつかぬ水のしたたりを聴いていた。気がつけば窓の外ではすでに朝日が輝いて窓辺を白く照らしだし、娘の顔を淡く撫でていた。
新婚旅行で行ったマンハッタンの朝焼けに心をうたれたあの感覚を覚えている。娘の寝ている部屋に射す光は、光とは思えぬほどの苦さをそこにふくんでいた。
夫との不和を誰にも悟られまいと、コーヒーをすする音ひとつにも神経を研ぎ澄ました。その方がかえって不自然なふるまいとなるとどこかで薄々気付きながら。
八月にはめずらしい激しい雨がひとしきり降って、それがひとたび止んでしまうと、あまりに不安定な、卵の上に卵を累ねるような、それでいてどこか涼やかな音色を立てる風に、私はあまりにも安らぎつつあった。溺れるほどの海原のなかで、冷たい一瞥を放って背を向ける私がたとえそこに見えたとしても、私はどうしても、この新しく手に入れた爽やかさを手放す気にはなれなかった。ほとんど藤野とは私には記号にすぎなくなっていた。藤野が好きだった映画を撮り溜めたビデオを捨てることも、ためらいはなかった。
剥きかけの林檎みたいな影がシンクに、洗面所の鏡に、風呂場に、立ち去りがたい染みになっていた。私を罪人に仕立てあげようとするそれらは、花瓶のなかのスイセンを枯らせ、洗濯物を濡らしつづけた。いま私はまさに水辺に立って咲く一輪のスイセンだった。まどろみから夢へ堕ちていく自分をたしかに知覚しながら、私はソファに凭れた。


散文(批評随筆小説等) 水辺 Copyright 伊藤 大樹 2015-08-13 20:24:17
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