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 二十代の後半に、私は転職した。
 外資系損害保険会社のセールスマンから、旅行代理店の添乗員に鞍替えしたのである。しかしそれは、積極的な転職ではなかった。セールスの仕事で思うように客が取れず、コミッションが稼げなくなり、生活が立ち行かなくなってしまったから。添乗員を選んだのは、私にはアメリカへの留学経験があり、英会話の点で他の志望者より有利だと判断したことと、仕事とは言え、只で海外に行けるのはおいしいと思ったからである。
 しかし、添乗員の募集に受かり、明日が入社式となる日、事件は起きた。
 私には釣りの趣味があり、その日も自宅から近所の川へ鯉釣りに出かけた。その日の私は絶好調で、常連の古老たちを尻目に、七十センチ級を何本も釣り上げた。
 明日からは新職場である。釣果はそれを祝うかのようであった。しかし好事魔が多し。私は川の縁から足を滑らせ、川へ落ちたのである。落ちた処が悪かった。水中で朽ちかけ、先端が鋭角的に尖った澪標に尻をダイレクトに打ち付けたのである。鋭い痛みが尻の穴付近に走る。古老たちによって岸に引き上げられる私。私は痛さでのたうち回りたいのを必死に堪え、クルマまで戻り、片尻を浮かせるように運転席に座り、エンジンをかけ、帰宅した。出血は大したことはないが、尻穴付近がズキズキ痛む。本来ならすぐに医者に診せるべきである。しかし、明日は初出勤の日、これを逃すわけにはいかない。
 尻穴の痛みは尋常ではなく、歩くのもままならない。ならば、クルマで行こう。会社は渋谷にあるオフィスビルの一室。友人に運転してもらい、入社式が終わるまで車の中で待ってもらう事にしよう。その旨を友人に電話で頼むと、快く引き受けてくれた。
 前日はバファリンを五錠飲み、ベッドへ入ったが、痛みで一睡もできず、フラフラする頭で友人と約束した場所で落ち合い、運転を代わってもらう。
「おまえ、ろくに歩けないじゃないか。それって入院なんじゃないの?」
「たぶんそうなるが、今日は逃すわけには行かないんだ。入社式なんだ。おまえには会社を休ませてしまってすまなかったな」
「それはいいが、あまり無理はするなよ」
「ああ、たぶん午前中で終わるから、それまで、この辺に居てくれ」
「よっしゃ、がんばてこいよ」
 脂汗を流しながら入社式が終わるまで耐え、その足で、自宅近所の病院まで友人に送ってもらう。
 案の定、即入院。全治十日と相成った。会社には「ぎっくり腰になった」と伝えた。
 入院生活は恥ずかしいものであった。越中褌をはかされ、妙齢の看護婦がガーゼを取り替えにくるときは、褌を脱がされ、脚をM字開脚しなければならなかった。まだ若かったから、性器が反応してしまうこともあった。
 
 ようやく傷も癒え、退院した。会社に、明日から出勤できる旨を伝え、私の添乗員としての第一歩が始まった。
 添乗員として働いてみて、この仕事が自分に向いていない事はすぐに判った。仕事自体は難しいものではないが、添乗員とはある種のタレントのようなもので、人間的に、もっと言えばルックス的に『華』というものがないと、客から良い印象は得られにくい。損害保険で売れなかった私は、その華がない。
 これは、よほどの覚悟を持ってやらなければ、干されるぞ。私はそう思った。
 私は客の下僕となる誓いをたてた。この業界で私が生き残るには、それしかない、と思った。しかし、そう決めてしまえば、それはそれほど苦しい事ではなかった。どんなに嫌な客とも、二週間もすれば、成田空港の到着ロビーでお別れである。よほどの事がない限り再会することはない。『一期一会』など、クソくらえ、と思っていた。私は積極的に男芸者に徹した。そして私が仕事を干されることはなかった。
 私は色々な国々へ、客と同行した。台湾、韓国、中国、東南アジア諸国、オーストラリア、ニュージョーランド、ハワイ、アメリカ本土、カナダ、メキシコ、ブラジル、アルゼンチン等々。その都度最善を尽くし、クレームもなるべくその場で処理した。
 三十歳を過ぎ、私はこの仕事に充実感を覚えるようになっていた。損害保険のセールスマンだった時とは大きな違いである。しかし、それも長くは続かなかった。私は又もや転職しなければならないハメに陥ったのである。それは湾岸戦争とバブル景気の崩壊が原因であった。このダブルパンチで、ツアーは激減した。日当制の雇用だった私は、またしても経済が成り立たなくなってしまったのである。
 
 私は父親の縁故で、立ち上がったばかりの建築請負の会社に世話になることになった。五人ばかりの小世帯で、『制作金物』を請け負う会社だった。制作金物とは、例えば、エントランスに架かる庇や、階段の手摺で、量産品でないものを指す。社長は有能な人で、業界ではシェアトップの企業で、筆頭専務まで登りつめたが、出世レースの最終コーナーで躓き、自分で起業せざるをえなかったという。だから、会社の人数は少なくても商いそのものはでかい。
 そんな中、私の職務は『現場代理人』であった。現場代理人の仕事とは、ひとことで言って、建築現場の工程がスムーズに運ぶよう潤滑油になることである。現場監督や職人の親方との折衝が主な仕事だが、建築の図面が読めることが大前提である。ところが、理数系が不得意な私は、この図面というものが読めない。だから、例えば下請けの工場から搬入された品物に不備があるとき、監督や職人とまともな話にならないのである。いや、ちゃんとした製品が搬入されることは希で、私は常に理由もわからず、監督から怒鳴られ、職人から文句を言われるのだった。そういうことが四~五年続き、私は精神に異常をきたすようになっていった。
 夜、眠れない。食欲がない。歩いていて、信号で立ち止まる。青信号になっても、歩き出すことができない。そういう些細なことから始まって、朝、どうしてもベッドから出ることができず、欠勤してしまう。それが何日も続く。「もうだめだ」が口癖となり、自分は生きるのに値しない人間だ、との思いに囚われる。
「鬱病ですね。少し静養されたほうがいい」
 心療内科のドクターはそう言った。しかし、制作金物の会社には「静養」など、許される雰囲気はなかった。やむなく、私はその会社を辞めた。
 静養してみたが、心は焦るばかりである。僅かな蓄えと失業保険があるうちはいいが、それから先はどうなるのだろう。そう考えると胸が張り裂けそうで、とても静養している気分にはなれなかった。心療内科に診せながら、ハローワークに通う日々が続いた。しかし、良い結果は得られなかった。
 次に私を雇用したのは、親戚が経営する惣菜屋だった。東京の東はずれにある駅ビルの地下街。その中の一店舗が私の職場だった。
 私は抗うつ薬を飲みながら、コロッケやメンチカツを揚げた。そして、しみじみと考えた。どうして自分の人生は、こうして流転してゆくのだろう。保険屋でも旅行屋でも建築屋でも自分は一生懸命に働いた。その結果がこれか。安い給料で雇われ、朝の八時からエアコンもない部屋に設置された油釜で汗でぐっしょりになりながら、サービス残業で、夜の八時九時までコロッケを揚げている。
 もしかすると、あれがターニングポイントだったのかもしれない。あの、鯉を大釣りして、川に落ち、尻穴の近くを怪我した時。あの時点で、素直に添乗員になる事を諦めていたら、自分の人生は違った展開になっていたかもしれない。添乗員の仕事は自分には合っていなかった。無理をして幇間の真似事などしたことが、後の鬱病と繋がっているのではなかろうか。
 あるいは、私の育った環境に問題があったかもしれない。父親は建材メーカーのサラリーマンだったが、子供の教育には関心がなく、仕事一本槍の男であった。母親は不動産投機をしていた。いつも失敗ばかりで、頻繁に借金を督促する電話がかかってきたり、人相の悪い男が訪ねてきたりした。投機が上手くゆかないと、その度に引っ越した。引っ越す度に家は小さくなっていった。父親の収入が安定していたから、なんとか外面は保てたが、内情は常に不安定であった。東京電力から電気を止められたこともあった。
 母親は五十半ばで倒れた。白血病であった。その際、母親の実家が借金を全額肩代わりしたが、億に近い額だったという。母親は三年の闘病の末、白血病と肺癌の合併症で死んだ。私は、母親は長年に渡る借金のストレスで発病したと考えている。
 戦慄した。この私にも母親と同じ血が流れている。母親はある種の狂人で、本来、家族など持つべき人間ではなかったのだ。母親似の私は一生家族を持たずに生きてゆくつもりだが、こういう方針と鬱病との間に因果関係はあるのだろうか。


散文(批評随筆小説等) 流転 Copyright MOJO 2015-07-22 12:45:03
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