寒い夏
イナエ

七月のある日 兄は ぼくを呼んだ
風通しの良い部屋に一人伏せていた兄は
「今度は帰れないかも知れない」という
「弱気なことを…」
ぼくはそう言ったきり次の言葉が出ない

幼少時父も母も病で亡くし 
長い間離れ離れに暮らしてきたわたしたち
間にいた兄姉も夭折して
十歳ほど年も離れた兄とぼくだけが成人した
肉親としての特別な情愛は湧かなかったが 
他人の顔色をうかがって媚びを売り少年期をおくってきたぼくが
この世で唯一心を開ける人 
二人で居ると安心できる何かはあった

兄は 早くから軍人になっていた
復員後暫くして見つかった肺結核
何度も入退院を繰り返すことになった
 
法事などで親戚のものが集まったときなど
たいして飲めもしない酒で酔うと戦争の話をした
復員して間のない頃は 
八路軍と銃火を交えて何人か殺したとか
襲撃されたあとには
仕返しに近くの集落を襲って略奪や暴行をしたとか
事実か作り話か知れないようなことを陽気に話していた

が 時が経つに従って 話は沈鬱になり
かつて国の繁栄を信じて死んでいった仲間を思ってか
取り残された無念感にさいなまれていたらしい
やがて 生き残ったのは役に立たないからさ
が口を突いてからもう戦時の話はしなかった

地道に生きていくことを選んで地方都市の公務員になり
町の一角でひっそりと暮らしていた
一時結婚もしていたのだが
その頃にはすでに片肺を失っていたのだ
義姉は入退院を繰り返す兄に嫌気が差したか
他の男の元へ走った

そのときも兄は
シャバに居るより入院が長いのだから仕方ないさ
と言って、連れ戻すと息巻く友人達を制した
その頃からこのこと有るを予測していたのかも知れない

役所の同僚達が 兄を病院へ送っていく車で来ると
寝具や僅かばかりの身の回りの物を車に積み込み
此処にあるものは何でも自由に使って良いからね
と 薄ら微笑み乗り込んでいった

  今 黒枠の写真をちゃぶ台に置き
  広くなった部屋に座していると 
  主の去った家の壁から冷気が押し寄せ
  身震いを禁じることが出来ない
  まだ 八月になったばかりだというのに


                     ー昭和四五年の夏のことー


自由詩 寒い夏 Copyright イナエ 2015-02-02 09:45:34縦
notebook Home 戻る