スプーン
salco

 冬
誰もが道行く姿に目をみはった
くすんだ家並の下町
それは何よりも奇異に映えた

女は山の手の私立病院に通う
病人ではない、看護師で
給料とボーナスを貯めて八年
恋人のひとりも作らず
遊びの誘いにも乗らず
年に一度の帰省もせず
ある意味病人かも知れない

全額を引き出された行員は何故か
平静の下に的外れな憤怒をひた隠した
まるで捨てられた男みたいに
そして拾われた女みたいに
店員は思わぬ上客にひれ伏し
裏では即金での支払いを
会計係が三人がかりで鑑定した
売り場責任者の心からの追笑
ゼロの並んだ領収書
こうして女は軽やかな重み
ロシアンセーブルを手に入れた

食事もせずに部屋へ帰ると
箱を開いて鏡の前へ
 今後のご予定は?
 かぼちゃの馬車でパーティーへ?
金持ちの十分間に八年も費やしたのだ
見合う宝石も服も靴も無く
こうして女は鏡の前で踊る
パートナーもシャンパンも無く
ラジオは管弦楽団
リノリウムが大理石になる

愛おしい宝もの
まちがいなく自分より大事な同居者
ハンガーで留守番を余儀なくされ
箪笥に南京錠を付けた
部屋のドアには五個
不安の横槍で三個足す
なのに片時も頭を離れない
空巣と類焼で仕事に身が入らない
悪液質を来した患者に薬を飲ませ
浮腫んだ手首の脈をとるのに気もそぞろ
早く帰りたいとしか考えていない

休みの日には商店街や公園
舗道や駅頭で姿が見られた
『まぁ高そうなコート着ちゃって』
『うわ、時代錯誤』
雨でも雪でもしまい込んだりしない
うす汚れた大気
うすら寒い雑踏
うら寂しい街角でも
素敵な誰かに会いに行くよう
楽しい用事を片しに行くよう
知らぬ者には場違いの富裕に過ぎず
知人は驚き、いぶかしんで噂する
女達は羨望と妬みを撚り合わせ
男達は商売替えをしたと見た
見合う観念が自ずと策定される
社会という構造体

女は意に介さない
人目も口も鏡やガラス
多ければそれだけよく映る
顎に襟足に触れる毛足と同じ
くすぐったくて気持ちがいい
こんな毛皮を着る自分
それを確認する瞬間が嬉しいのだ
称賛者は一人でいい
最も熱烈で忠実なのはどうせ一人だ
こうして冬じゅう
春先まで女は幸せだった



 夏
誰もが道行く姿に振り向く
アスファルトも溶け出す日射の下
それは何よりも奇異に映る

女は涼しい顔で闊歩する
歳末セールにかけられた北半球中の毛皮が
三月に倉庫へ投げ込まれていようと
見た目だけでも爽やかであろうと髪を束ね
女達が寒色の薄物をひらめかせていようと
待てない
辛気くさいセーターを出す時期までなんて
半年も箪笥に閉じ込めて置くなんて!
華やいだ気分を禁じられるなんて

人生は短く
誰しも長く幸福でいたいもの
黒褐色の毛並は少しく乱れ
毛足もいくぶん乾いたようだ
目をむく人、指さす人
冷めた横目ですれ違う人
くすくす笑って囁き合う人
今やちょっとした有名人
話に聞いてわざわざ見に来た者
後をつけ回して囃す子供
それでも
町の誰より豪奢なものを着けている事実
満ち足りた気分で歩く現実は変わらない
ただ時が移って気温が上がっただけ

同じようなセーブルや
もっと高価な外衣を並べる所有者達が
避暑地で日焼けし
沖合の紺碧に白波を曳いている間
女のは次第に汚れて傷んで行った
何故なら寝る時も着たまま
充足は肌身を離れる時がない
夢の中でも燃え続け
女の心は決して凍えることがない
片時も離れたくなく入浴をやめ
同じ理由で退職したのはもっと前

残暑が引いて家賃が滞り出し
秋も深まって食糧が底をついた
真っ暗な部屋で忠実に守られ
水道も止められて
女は飢渇もおぼえず満ち足りていた
野良猫みたいに骨の浮き出た体を横たえ
くぼんだ目を陶然と開いて
何かを語り聞かせるかのように
冷たい指でゆっくり毛足を撫でていた

管理人が業者を引き連れ
八個の鍵ごとドアを破った時は
アッパーカットにのけぞったものだ
息を止めて突っ切ろうと己を鼓舞し
窓に手を掛ける前に駆け戻った
何とか通路へ間に合い背を折ると
その後は記憶の戻しに悩まされた由

テーブルにはキャンベルの空き缶
ひっそりとステンレスのスプーン
ベッドには毛皮


自由詩 スプーン Copyright salco 2014-12-04 23:38:40
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