主体と他者  mixi日記より 2010年12月
前田ふむふむ

僕において、「主体」「他者」とはなんだろうと考えることがある
他者を成り立たせているものの前提には主体があり、他者により到来するもの
としての主体がある
でも、この主体は何によって獲得したものであるのだろうか
それは、西洋において、神という自然から、切り離すことにより、
対立の構図のうちに、獲得してきたものである
だから、神を意識し、生活の基底に、その存在があり、
そこから、自己を客観的に認識するうちに、
あらゆる学が、人文科学、社会科学、自然科学が成立したのであり、
近代国家も成立したのである
すなわち、近代的主体をなりたたせるのは、絶対普遍的な規範がなければならなかった。
絶対者として批判あるいは反省するものがなければ、新しいものは、そもそも成り立たない。
何にもなければ、批判と反省があり得ないからである

だから、明治の敏感な為政者は気づいたのである。日本には、それがなかったことを、
日本にも近代国家としてありうべき、規範となる基底を必要としたのだ。
そして、そこに、神聖にして犯すべからざる天皇を据えたのだ。
しかし、その超越者は、親子の関係性で、すなわち親の分身としての子の関係で、
成り立たせており、二元論的な対立の他者としては置かれず、批判の対象としてはなりえないものとして考えられた。
だから、当時からの知識人は、近代的知性として、主体を獲得するため、
モダニストは、主体の外部として、西洋の最新の翻訳文化イデオロギーをおいて飾ったのであり、マルクス主義者は、主体の外部に、プロレタリアート独裁の形而上学を据えたのである
彼らは、普遍的なるものと対立せず、そもそも、その対立するものが存在しなかったから、
彼らは、その西洋の翻訳的外部に、身をゆだねていればよかったのである。
だから、大政翼賛会の大号令のもと、大した傷を負うことなく、むしろ積極的に、
身をゆだねたのである。すなわち、もともと、その主体は、何かと対立のうちに獲得したものでなかったから、着ている衣装を変えただけであるから、
主体の外部は、どうにでもできたのである。詩人も全く同じである。
自由主義者(社会主義者)→軍国主義者→平和主義者
日本人の主体と他者の概念は、こうして作られたといってよいだろう。
僕たちは、よく「人はみんな同じだから」といって仲間意識を持って解決する、
でも、もし同じだったら、他者は見えてこない、そこにはあるイデオロギーに身を横たえている欺瞞があるのである。本来なら、「人は全員違う」と考えなければ、他者は、
決して現れない。
僕らは、戦争と敗戦で、ある自由を与えられた
しかし、それは、他者から獲得したものではなかったから、僕らは、他者がくれた外部に身を横たえれば、それでよかったのである。
平和・自由主義、あるいは反米的マルクス主義、あるいは伝統的なナショナリズム
など、みな身を横たえているのである。別の言葉でいえば所属していると
いえるものである。
そういう外部として、それは同時に内部でもあるような他者を抱えている主体は、自らが自律的ではないために、
自らの主体に反省がないのである。
一種の普遍的なるものを仮託しているから
他の考えを批判し、否定するが、自らがもつ外部としての所属が、抱える諸矛盾を正確に客観的に分析が困難であるし、この主体の内部でもありかつ外部でもあるような他者のうちには、そういう修辞はもたないからでもある。
であるから
そのような自己批判的な判断は、自らの所属の他者への違反であり、この奇怪な日本的「外部」の放棄であり、自らの存在場所を失うのである。
こういう命題に対して、どのような批判が可能だろうか。
「僕は、世界平和を希求するし、平和主義者の日本国民として、武力によって
他国に迷惑をかけることには断固反対する」
僕らは、平和主義という他者に寄り添っているから、これを批判する修辞を持たないのである。
そういう生理のうちにある僕らが、
突然、国家危急な出来事が現れて、自らの存在の危機に直面すると、
戦前と同じように、他者の所属を変えて、一億交戦主義者に変貌することは、十分に可能なのである。
なぜなら、客観的な存在として、平和という他者に携わっていないからである。
もし、携わっているなら、平和主義者として、この平和主義をいつでも批判できる場所を常に確保していなければならないはずだからである。
僕らは、現実には持っていない。ひとつ例をあげよう。
「憲法改正の国民投票には反対である。」という標語は、平和主義の修辞のなかにはある。
しかし、逆に「現・平和憲法を国民投票で、米国に与えられたものではなく、自国民のものとして、まったく改正せずに、自律的に獲得しよう」という発想の場所を用意していない。

僕は、仮説として、このような、内部であると同時に外部であるような「主体」、「他者」
を考えてみましたが、未成熟の「主体」と言っているのではありません。
これは、日本の独自のたどらざるを得なかったものだと思います。
日本にも、普遍的な存在規範は、古来なかったのだろうかと考えてみた。
あるとしたら、それは、あらゆるものを包括して、無(あるいは有)にしてしまう
八百万の思想だろう。それは、西洋に「主体」「他者」の思考とは、真逆なものである。
条件さえ整えば、その何でも許す認める思考を考えれば、
きわめて寛容なものであるが
この考えで
多くの文化人が、大政翼賛会に迎合したのは、日本人の規範に忠実であったと
言えなくもない。



散文(批評随筆小説等) 主体と他者  mixi日記より 2010年12月 Copyright 前田ふむふむ 2014-10-04 18:13:13縦
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