零戦の思想 mixi日記より 2008年7月
前田ふむふむ

コストを如何に抑えて、良いものをつくる、その成果が商品として、私たちの前に並べられます。その商品としての特質として、人命尊重は、何番目なのでしょうか。それというのは、私たちは、人命尊重第一主義の社会には、生きていないのではないかという疑念がよぎります。そのために、昔の古い戦闘機の話をしたいと思います。

零式戦闘機(通称、零戦)といえば、かって太平洋戦争の開戦当初、飛行距離の長さ、スピードにおいて、世界一であった、優れた戦闘機であったということは、有名ですが、
そして、当時の日本海軍の優れた搭乗パイロットによって、将に、天下無敵の強さを誇っていましたが、その零戦は、飛行距離の長さ、スピードを、他国の戦闘機より、圧倒的に大きくリードさせる為に、大変な犠牲を払っていたのです。それは、機体を軽くするということでした。つまり、パイロットを守るための設備を、すべて削ぎ落とすことだったのです。
必然的に防備の面では、まったく無策といって良い状態になったのです。
丁度、ガソリンをたっぷり積んだ、ブリキの飛行機のように、軽くて弱い機体、攻めるには強いが、守りには、極端に弱い。そこにあるのは、搭乗パイロットに対する、人命軽視の思想です。
大戦当初、無敵でありましたが、アメリカ軍により、その零戦の墜落機が回収されて、その正体、いわゆる、優れた面と、弱点が分ったのです。アメリカ軍部は、その優れた面に魅力を感じましたが、パイロットの人命を尊重すると言う観点から、それを採用しませんでした。逆に、スピード等を犠牲にしても、防備の面を更に強化していったのです。
結果、アメリカの戦闘機は、3−4発、玉が当たっても、かすり傷程度でしたが、零戦は、
一発の玉で、紙のように燃えていったのです。そして、アメリカはあっという間に、制空権を獲得して、日本の敗北を早めたのです。

この零戦を代表とする、すべての人命軽視の軍事技術は、戦後、生き残った技術者によって、民間産業、特に、鉄道や自動車産業などの主要な産業に、受け継がれることになりました。
ついこの間、記憶も新しい、JR西日本の尼崎駅付近のマンションに突っ込んで、多くの
死傷者をだした脱線事故がありますが、それには、運転手の精神状態や無謀な運転がクローズアップされていました。車体は大きく破損して、とくに2号車は、ペチャンコの板ぺラのように、なって、ほとんど原型を留めていません。悲惨な状態です。
これは、電車を造る時、車両の軽量化、軽量化による大幅なコストダウン、見た目の外装美に重点をおいた結果ではないでしょうか。もし、人命尊重を第一義に掲げていたのならば、不測の事故にも対応する、軽量なものではなく、頑丈な壊れにくい重量感のある電車が出来ていたでしょう。もし、そのような電車なら、あのような悲惨な破壊はおこらず、
死傷者の数も、もっと劇的に少なかったのではないでしょうか。
次に、自動車のことですが、日本では、軽量化や外装美が、どんどんエスカレートして、
車体自体は、実にキャシャになってきています。私は、以前載っていた車は、バックして、
電信柱にバンパーを軽く触る程度にぶつけたのですが、電信柱はなんともなくて、車は、
恐ろしく簡単に凹んでしまって、高価な修理費を出したことを覚えています。
それに引き換え、アメリカのリンカーンに代表されるアメ車は、恐ろしく、ガソリンを食いますが、骨格豊かで、頑丈に出来ていて、少しくらいではビクともしません。
つまり,事故に強いのです。その頑強さが、搭乗者を守ってくれるのです。
多分、アメリカ軍が持っていた、あの人命尊重という精神と、同じような精神が、そこには、かなり流れているのではないでしょうか。

あらゆる商品には、軽量化、小型化に代表される動きは、とても、合理的な新しいものなのですが、(パソコンや携帯電話が良い例)、勿論、それは、良いことなのですが、その商品をつくる動機、過程で、人命尊重ということを、軽視し、あるいは無視してなされるとき、あの、零戦の人命軽視の精神になってしまう恐れがあることを、私たちは、注意深く見ていく必要があるでしょう。






散文(批評随筆小説等) 零戦の思想 mixi日記より 2008年7月 Copyright 前田ふむふむ 2014-10-04 18:04:51
notebook Home 戻る  過去 未来