笛吹き少年の行くえ(7)
Giton

「雪の蝉」は、わずかに1連3行の「藁沓に雪軋らしめ」に、その余韻が残っています。宮沢賢治の詩の題名は、しばしば内容に関する注釈として付けられています。本文だけでは、意味内容が読みとりにくい場合に、しばしば題名によって読者に説明することが行われます。これは、『春と修羅(第1集)』以来、頻繁に見られます。おそらく、賢治は詩の題名を、和歌の詞書(ことばがき)のように考えていたのだと思います。詩業を通して見ても、賢治詩には題名のないものが多く、とくに文語詩の大部分は題がありません。「無題」という題名も、決して使われませんでした。これは、題を作品の一部とは考えていなかったことを示すと思います。賢治にとって、題はあくまでも本文に対する注釈であって、題によって作品内容に何かを付け足してはならないし、本文内容から“はみ出る”題も、本文と重複する題も、削除されなければならない──と賢治は考えていたように思われます。これまでせっかく苦労して推敲してきたメイン・イヴェントをバッサリと切り捨ててしまう・このような極端な“刈り込み”は、この詩のみならず、賢治晩年の文語詩稿では、一般的に見られるものです。このような文語詩(公刊されていた定稿形・最終形)に対して、かつて(1970年代の『校本全集』で下書稿が公表されるより以前)は、「詩想に表現がおいついていない」(中村稔)、「一見骨ばかりに痩せた枯淡の感を与える」(小沢俊郎)といった否定的な評価がふつうでした。「下書稿(三)手入れ(3)」に「(了)」印が付された時期は、1932年2月頃〜10月頃の間と推定されます。というのは、?このテキストは係り結び「こそ‥なり」に誤りがあり、にもかかわらず「了」とされているからです。これは、1932年2月以降に文語文法の再学習をする直前の時期と考えられます。そして、下書稿(四)は、再学習後に「こそ」を除いて誤りを直したものと考えられます。したがって、「(了)」の上限は、1932年2月頃。栗原敦,op.cit.,pp.387,393-395 参照。?他方、同年8月・11月発行の『女性岩手』誌に文語詩・計5篇を掲載していますが、11月掲載分のうち1篇にだけ、掲載原稿の3段前の下書稿に「(了)」印があります。いったん「(了)」とした後に文法再学習を行ない、さらに推敲して送稿したものと考えれば、「(了)」の下限は10月頃となります。
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   【7】 災害と隠蔽


   下書稿(三)手入れ(2) 〔A〕+〔B〕

    なだれ

 若き母織りし麻もて
 身ぬちみな紺によそほひ
 藁沓に雪軋らしめ
 笛吹きの子は出で行きぬ

 青ぞらのひかりの下を
 ちりのごと小鳥啼きすぎ
 この杉の峡の奥より
 あやしくも神楽湧ききぬ

 雲が燃す白金環と
 白金黒のいはやを
 日天子乱れ奔りて
 児のすがたすでになかりき

 よもすがら雪をうがちて
 村人ら児をもとめしに
 その児の頬かすかにわらひ
 唇は笛吹くに似き


前回の最後に見た〔A〕+〔B〕の合体形「下書稿(三)」に対して、↑さらに手を加えたものです。

〔A〕断片にあった「雪の蝉」*1と「くるみの木」が捨てられ、そのかわりに「神楽」が復活しました。

そして、少年は、「笛吹きの子」と呼ばれています。最終行の「唇は笛吹くに似き」という死に顔から、少年は、当初から「笛吹き」であったものとして、性格づけられたのでしょう。「笛吹き」であった少年の口は、不慮の事故で命を落とす無念さを訴えるかのように、‥あるいは、昇天して笛吹く天人となろうとするかのように、すぼまった形で穏やかに笑っていたのです。
「笛吹き」は、神楽の御囃子も連想させます。しかし、少年は御囃子の一員だった、というような結びつきが読み取れるかどうかは、分かりません。むしろ、少年と「神楽」との関係ということで言えば、もっと重大なつながりが発見できます。なぜなら、題名が「なだれ」に変更されているからです。*2

つまり、少年が遭難した原因は、雪崩れに遭遇したためだと、この題名は暗示しています。そうすると、雪に埋もれた峡谷の奥から「あやしくも‥湧」いてきた「神楽」とは、雪崩れの前兆の轟音なのではないか。。。 ということが考えられます。

いまや、「神楽」は、「日天子」の登場の伏線であるにとどまらず、「神楽」自体が、少年の命を奪う災害の予兆です。
そして、「日天子」の登場という〔B〕のメイン・イヴェント自体が、雪崩れ事故の譬喩‥あるいは、雪崩れ事故という自然災害を、超自然的に象徴化した形象であるように思われます。「日天子」は、一方では、雲間から現れた太陽であるとともに、他方では、自然災害、ないし超自然的な災厄の脅威を実体化した神格であると言えるのです。


ところが、次の段階へ進むと、作者は、これまで丹念に推敲してきた〔A〕断片の大部分を、バッサリと切り捨ててしまいます*3


   下書稿(三)手入れ(3) 〔A〕+〔B〕

    なだれ    (了)

 塵のごと小鳥啼きすぎ
 ほこ杉の峡の奥より
 あやしくも神楽湧ききぬ
 雲が燃す白金環と
 白金の黒のいはやを
 日天子奔りもこそ出でたまふなり


もはや、〔A〕断片は、「塵のごと小鳥啼きすぎ」の一行しか残っていません。

しかも、作者は、この計わずか6行に縮約されたテキストに「(了)」印をつけて、これを定稿とする意思を表示しているのです。*4

これは、いったいどういうことなのでしょうか?。。。

「なだれ」という題名は残されてますから、雪崩という自然災害が起きたことは暗示されていると言えます。しかし、その犠牲となった少年は、最初からまったく消し去られてしまっています‥

通常の作家の場合であったならば、これは作者が構想を変えたのだと、見られるかもしれません。少年遭難譚という構想を、作者は適当でないと考えて捨てたので、そのストーリーは削られたのだと‥

しかし、すでに、1970年代からの賢治研究の流れとしてご紹介したように、宮沢賢治の場合には、ことはそう簡単ではないのです。そもそも、“作品に手を入れる”ということ自体が、通常の作家のように、よりよいものを目指して彫琢を加えるということでは、必ずしもない。むしろ、いったん完成品と認めたものに手を加えて、別の作品にメタモルフォーズさせる──と言ったほうがよいくらいです。

ところが、この詩の場合、“作品成立史”の最初から、作品の本体は〔A〕断片として形づくられてきたのであって、〔B〕断片のほうは、途中から合体された・主筋と関係のない鋏雑物のように思われるのです。もしも仮に、〔A〕を放棄して完成稿が成立したのだと理解するならば、それは、“ひさしを貸して母屋を明け渡す”ようなことになってしまうでしょう。それは、気まぐれなようでいて一貫性のある作者の性格にそぐわないように思われるのです。。。

そして、じっさい、上のテキストを見れば、〔A〕断片が完全に追放されてしまったわけではなく、?「塵のごと小鳥啼きすぎ」という最初の一行は〔A〕断片のまま残されています(この一行を、賢治は、草稿上で執拗に何度も書き直したあと、けっきょく、もととほぼ同じ形に戻しているのです)。この行は、「青きそらのひかりの下を」「青きそらのひかりに」という削除された青空の描写を容易に想起させます──そうした“深い青空”の情景を、黙示的に含んでいると言えます。そして、この青空の描写は、次の「下書稿(四)」への手入れで、じっさいに復活するのです。?「神楽」の轟き、および雲間からの太陽の登場という〔B〕由来の部分も、いったん〔A〕の少年遭難譚と抱き合わせられたことによって、内容に影響を受けていると言えます。災害で命を落とした少年の口碑と結びつくことによって、これらは怪異性をより深め、かつ、デフォルメされた暴力性を、いっそう露わにしているのです。。。
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*1 「雪の蝉」は、わずかに1連3行の「藁沓に雪軋らしめ」に、その余韻が残っています。
*2 宮沢賢治の詩の題名は、しばしば内容に関する注釈として付けられています。本文だけでは、意味内容が読みとりにくい場合に、しばしば題名によって読者に説明することが行われます。これは、『春と修羅(第1集)』以来、頻繁に見られます。おそらく、賢治は詩の題名を、和歌の詞書(ことばがき)のように考えていたのだと思います。詩業を通して見ても、賢治詩には題名のないものが多く、とくに文語詩の大部分は題がありません。「無題」という題名も、決して使われませんでした。これは、題を作品の一部とは考えていなかったことを示すと思います。賢治にとって、題はあくまでも本文に対する注釈であって、題によって作品内容に何かを付け足してはならないし、本文内容から“はみ出る”題も、本文と重複する題も、削除されなければならない──と賢治は考えていたように思われます。
*3 これまでせっかく苦労して推敲してきたメイン・イヴェントをバッサリと切り捨ててしまう・このような極端な“刈り込み”は、この詩のみならず、賢治晩年の文語詩稿では、一般的に見られるものです。このような文語詩(公刊されていた定稿形・最終形)に対して、かつて(1970年代の『校本全集』で下書稿が公表されるより以前)は、「詩想に表現がおいついていない」(中村稔)、「一見骨ばかりに痩せた枯淡の感を与える」(小沢俊郎)といった否定的な評価がふつうでした。
*4 「下書稿(三)手入れ(3)」に「(了)」印が付された時期は、1932年2月頃〜10月頃の間と推定されます。というのは、?このテキストは係り結び「こそ‥なり」に誤りがあり、にもかかわらず「了」とされているからです。これは、1932年2月以降に文語文法の再学習をする直前の時期と考えられます。そして、下書稿(四)は、再学習後に「こそ」を除いて誤りを直したものと考えられます。したがって、「(了)」の上限は、1932年2月頃。栗原敦,op.cit.,pp.387,393-395 参照。?他方、同年8月・11月発行の『女性岩手』誌に文語詩・計5篇を掲載していますが、11月掲載分のうち1篇にだけ、掲載原稿の3段前の下書稿に「(了)」印があります。いったん「(了)」とした後に文法再学習を行ない、さらに推敲して送稿したものと考えれば、「(了)」の下限は10月頃となります。



散文(批評随筆小説等) 笛吹き少年の行くえ(7) Copyright Giton 2014-09-08 09:11:32
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宮沢賢治詩の分析と鑑賞