笛吹き少年の行くえ(5)
Giton

下書稿(四)手入れ(2)。ルビはすべて編集者。『冬のスケッチ』の制作時期については推定によるほかないので、さまざまな説があります。『新校本全集』の解説では、1921年12月から1923年3月までとしており、これが通説と言ってよいと思います。私は、さらにしぼって、1921年12月〜1922年4月と推定しています。しかし、制作時期以上に難しいのは、テキストの繋がり方です。というのは、『冬のスケッチ』は49枚のばらばらの紙片の束として発見され、番号は付いておらず、しかも作者生前において何度か順序を入れ替えたり、途中の紙片を抜いて破棄した形跡があります。したがって、紙片をどう並べるかで、違ったものになってしまう可能性があります。ここで関係する「第20葉」→「第21葉」→「第3葉」(←番号自体便宜的なもの)の連続については、研究者間に異論がありませんが、だからといって確証があるわけでもないのです。この例を見ても、詩人に対して、文法を武器に闘いを挑んだり、文語か口語かどちらかに一貫せよなどと要求することが、いかに愚劣なことか、また、いかに詩人の創作活動を妨害するものか、よく分かると思います。なお、前後をどこで切り取るかは、草稿に指示がないので、あくまで便宜的なものです。母が糸から織って作った紺色の麻で全身を装った少年というモチーフの意味ですが、1924年に自費出版した詩集『心象スケッチ 春と修羅』を、賢治は、「表紙は、はじめの考えでは青い麻の粗布を用いたいという意向であった」(宮沢清六『兄のトランク』,p.171)、「表紙地は賢治は青黒いザラザラした手ざわりの布地を欲しがっていたのだったが見当らず」(小倉豊文「『春と修羅』初版について」,p.173,in:天沢退二郎・編『「春と修羅」研究?』,1975,学藝書林)、未漂白の麻布の白っぽい表紙になってしまったと言います。そこで、全身に紺の麻を着た「少年」とは、この初版本のことで、それを手づから織った「若き母」とは宮澤賢治自身ではないか、という読みが考えられます。私はまだこの着想を展開しえていないのですが、今後の課題としてここに記しておきます。
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   【5】 歌のわかれ


   雪 峡*1

 ちりのごと小鳥なきすぎ
 ほこ杉のかひの奥より
 あやしくも鳴るやみ神楽
 いみじくも鳴るやみ神楽

 たゞ深し天の青原
 雲が燃す白金環と
 白金の黒のいはや
 日天子せ出でたまふ


ところで、じつはこれまで、↑上の各連の1行目を、あえて解釈に入れないで論じてきました。
というのは、各1行目がなくても、全体の意味は変らないかのように見えるし、全体の流れとはちょっと異質な感じもします。

じつは、「雪峡」を「下書稿(一)」から見て行くと、2種類の作品メモからなっていて、推敲過程の途中で、2つの作品を合体させていることが分かります。この2つを、便宜上、古いほうから〔A〕,〔B〕と呼ぶことにしますと:

 下書稿(一) ‥‥ 〔A〕

 下書稿(二) ‥‥ 〔B〕

 下書稿(三) ‥‥ 〔A〕+〔B〕

 下書稿(四) ‥‥ 〔A〕+〔B〕

このように↑なっています。そして、上に掲出した「下書稿(四)」について言うと、各1行目「塵のごと小鳥なきすぎ」「たゞ深し天の青原」だけが〔A〕由来の詩句、他の6行は〔B〕由来の詩句なのです!

それでは、以下、「下書稿(一)」から順に見ていきたいと思います。


「下書稿(一)」は、1921-22年の習作メモ『冬のスケッチ』*2の一部です:


   下書稿(一)〔A〕 〔『冬のスケッチ』(20)-(21)-(3)〕

     ※ なやみ

 なやみは
 ただし、
 なやみは
 白くみゆ。
 
     ※
 
 かばかりも
 しづむこゝろ、
 雪の中にて
 蝉なくらしを。
 
     ※
 
 そのとき
 雪の蝉
 又鳴けり。
 
     ※
 
 若きそらの母の下を
 小鳥ら、ちりのごとくなきて過ぎたり。
 
〔?…〕 ※

 そらの若き母に
 梢さゝぐるくるみの木
 くるみのえだの
 かぼそい蔓。
 
     ※
 
 そらしろびかり
 くるみとは
 げにもあやしき
 気圏の底のいきものなるかな。
 
     ※

 すこしの雪をおとしたる
 母のみそらのしろびかり
 あらそふはからす
 枝をのばすはくるみの木
 
     ※
 
 雪すこし降り
 杉しづまり
 からすども鳴く、鳴く、
 からだも折れよと鳴きわたる。
 
〔?…〕 ※
 
 雪ふれば杉あたらしく呼吸す
 雪霽るれば杉あたらしく呼吸す
 
   ※
 
 雪すこしふり
 杉にそゞぐ飴いろの日光
 なほ雪もよひ 白日輪
 からすさわぐ
 

↑このように、ごく短い自由詩の連作のようなもので、たくさんの短唱が、ゆるやかにつながっている感じです。草稿紙片の連続は推定なので、紙片と紙片の境目に「〔?…〕」を記入しました。

書かれている文体も、「なやみは/正し/なやみは/白く見ゆ。」と、文語だったり、「かぼそい蔓。」と、口語に近づいたり、また文語に戻ったりと、一貫しません。*3


「雪の中にて
 蝉なくらしを。
 
     ※
 
 そのとき
 雪の蝉
 又鳴けり。」


まず、↑上の部分ですが、「雪の蝉」というのは、おそらく雪を踏んで歩いていると足の下から聞こえる「ギュッ、ギュッ」という音が、冬には居るはずのない蝉の鳴き声に聴こえた──ということではないでしょうか。

「若きそらの母」「そらの若き母」「母のみそら」と、作者は頭上の空に注目していますが、それは「しろびかり」する冬の曇り空です。雪も少し降って来ます。それでも、「なやみ」に沈んでいる作者にとっては、空の広さと明るさが救いになっているようです。

地上では、クルミの木、また、杉の木が、空に向かって梢を伸ばしています。
葉の落ちたクルミは、天の「若き母」に向かって枝を広げているように見えます。その姿を、作者は「あやしい」と言うのです:


「そらの若き母に
 梢さゝぐるくるみの木
 くるみのえだの
 かぼそい蔓。
 
     ※
 
 そらしろびかり
 くるみとは
 げにもあやしき
 気圏の底のいきものなるかな。」


これに対して、杉のほうは、クルミ以上に怪しく、黒々と乱れ、尖った矛先をまっすぐに天に向けています。
そして、雪がふりかかったり、日があたるたびに、杉の悶えは、やや鎮まるのです:


「雪すこし降り
 杉しづまり
 からすども鳴く、鳴く、
 からだも折れよと鳴きわたる。
 
〔?…〕 ※
 
 雪ふれば杉あたらしく呼吸す
 雪るれば杉あたらしく呼吸す
 
   ※
 
 雪すこしふり
 杉にそゞぐ飴いろの日光
 なほ雪もよひ 白日輪
 からすさわぐ」


さて、以上に対して、手入れ(推敲、加筆)が加えられたテキストを、↓次に示します*4


   下書稿(一)手入れ(2)〔A〕

 若き母や織りけん麻もて
 全身紺によそほひ
 藁沓に雪軋らしめ
 町に出で行く少年あり

 青きそらのひかり下を
 小鳥ら、ちりのごとくなきて過ぎたり。
 青きそらのひかりに
 梢さゝぐるくるみの木あり

 そのとき
 雪の蝉
 また鳴けり
 くるみのえだには
 かぼそき蔓


若い母親が麻糸から織って作った紺色の着物を着て*5、少年が町に出かけてゆく景が描かれます。
『冬のスケッチ』では、叙景も何もかも、作者の主情として表明されていましたが、ここでは、登場人物(少年)の眼なのか、それとは別に作者の眼があるのか?少年と一体化した作者の眼で見ていると言うべきでしょうか。
すくなくとも、「雪の蝉」は、少年の「藁沓」が踏む雪でしょう。
空やクルミの木も、作者の主情から離れた客観的な描写に近づいています。

第2連の:


「青きそらのひかり下を
 小鳥ら、ちりのごとくなきて過ぎたり。
 青きそらのひかりに
 梢さゝぐるくるみの木あり」


は効果的です。この情景は、どこか悲しみをふくんでいます。

それは、おそらく、第1連の・麻糸から丹精に少年の着物を作ったであろう「若き母」──場面には登場しないので「織りけん」となっています──は、ひとりで出かけた少年の身を案じているにちがいないこと、また、第3連の「雪の蝉」の声とクルミの「かぼそき蔓」という叙景が、少年の行く手に不安を抱かせるからでしょう。。。
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*1 下書稿(四)手入れ(2)。ルビはすべて編集者。
*2 『冬のスケッチ』の制作時期については推定によるほかないので、さまざまな説があります。『新校本全集』の解説では、1921年12月から1923年3月までとしており、これが通説と言ってよいと思います。私は、さらにしぼって、1921年12月〜1922年4月と推定しています。しかし、制作時期以上に難しいのは、テキストの繋がり方です。というのは、『冬のスケッチ』は49枚のばらばらの紙片の束として発見され、番号は付いておらず、しかも作者生前において何度か順序を入れ替えたり、途中の紙片を抜いて破棄した形跡があります。したがって、紙片をどう並べるかで、違ったものになってしまう可能性があります。ここで関係する「第20葉」→「第21葉」→「第3葉」(←番号自体便宜的なもの)の連続については、研究者間に異論がありませんが、だからといって確証があるわけでもないのです。
*3 この例を見ても、詩人に対して、文法を武器に闘いを挑んだり、文語か口語かどちらかに一貫せよなどと要求することが、いかに愚劣なことか、また、いかに詩人の創作活動を妨害するものか、よく分かると思います。
*4 なお、前後をどこで切り取るかは、草稿に指示がないので、あくまで便宜的なものです。
*5 母が糸から織って作った紺色の麻で全身を装った少年というモチーフの意味ですが、1924年に自費出版した詩集『心象スケッチ 春と修羅』を、賢治は、「表紙は、はじめの考えでは青い麻の粗布を用いたいという意向であった」(宮沢清六『兄のトランク』,p.171)、「表紙地は賢治は青黒いザラザラした手ざわりの布地を欲しがっていたのだったが見当らず」(小倉豊文「『春と修羅』初版について」,p.173,in:天沢退二郎・編『「春と修羅」研究?』,1975,学藝書林)、未漂白の麻布の白っぽい表紙になってしまったと言います。そこで、全身に紺の麻を着た「少年」とは、この初版本のことで、それを手づから織った「若き母」とは宮澤賢治自身ではないか、という読みが考えられます。私はまだこの着想を展開しえていないのですが、今後の課題としてここに記しておきます。



散文(批評随筆小説等) 笛吹き少年の行くえ(5) Copyright Giton 2014-09-07 16:38:09
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宮沢賢治詩の分析と鑑賞