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【2】“永久の未完成これ完成である”
文語詩に限らず、宮沢賢治の作品(短歌、詩、童話、散文等)は、大部分が自室にひとまとめになって残された遺稿という形で世に与えられたわけですが、この遺稿群に対して、何次かの全集編纂のために編集者が格闘する中で、あるひとつの特異な現象が見えてきました。
それは、──上に「五輪峠」という詩の草稿を例としてお眼にかけましたが──すさまじいとしか言いようのない推敲のあとが見えることです。
しかも、ふつうの作家が、作品の終局的な完成を目指して、研ぎ澄ますように彫琢して行くのとは、賢治の“推敲”は、およそ異なっているのです。
例えば、いったん完成したものに対して、さらに大幅な推敲──というより、もうほとんど改作といってよいほどの手が加えられる。手を加えたあとで、今度は、さらに手を入れる際には、いったん削除された前のテキストをまた復活したりもする。そのために、削除のしかたも、削除されたテキストが見えるように、一本線で軽く消したりしている。筆記具の色を変えて、どれがどの段階の手入れかが、自分で分かるようにしているフシがある。。。
そればかりか、刊本として自費出版した『春と修羅(第1集)』や雑誌掲載作品も、すでに活字になった紙面に対して、手書きでどんどん手を加えている。それは、誤字の訂正といったものではなく、ほとんど改作と言ってよい内容の変更を含んでいます。
このような“推敲”によって、口語詩が文語詩に変えられたり、あるいはその逆、あるいは詩を散文化して童話の一部にしたり‥という例もあります
*1
「たえまなく流動し、数年毎に清書をくり返されて変貌して行く賢治作品には、唯一決定的なテクストというものはあり得ないのであり、すべては『その都度その都度の達成』と『それからの離脱・転生への動き』とであって、未定稿・完成稿といっても、流動相の一つの断面にすぎない」
「賢治作品の『全集』を編もうとして各作品の最終的形態を集成したとしても、それだけではわずかに作品の一断面をとらえたに止る」
*2
「それらの草稿に見られる推敲は、作品の最終的完成のために、ながい時間をかけて、あちらを直し、こちらをととのえる、といった、普通に考えられるような推敲ではなく、ある時に作品のはじめから終りまで一貫して手が入れられ、そこで一つの新しい完成形が成立し、それからまた時をおいて、はじめから終りまで通して手入れがされ、作品がさらに新しい完成形に達する、という具合に、その大部分が、いわば層をなして積み重なっている」
「その都度その都度の完成と、そこからの転生、再完成の繰り返し。」そこに思い合わされるのは、『農民芸術論綱要』に賢治自身が記した「第四次芸術」「永久の未完成これ完成である/理解を了へばわれらは斯る論をも棄つる」といった言い方である。「これらの言葉は、賢治自身が自分の『作品創造』のそのような独特なあり方について、はじめから十分に意識的だったことを、あかしていると考えられる。」
「してみれば、それら『その時々の定稿』の最終のものだけを読んで、それで賢治を『読んだ』と言えるだろうか。」
「賢治の文学世界を『すべてにわたって読む』とは、幾重にも重なった『その時々の定稿』をすべて読むことであろう。」
*3
このような特異な草稿観(すべての推敲中途形に、定稿ないし最終形と同等の価値がある──というような)、ないし新しい賢治作品観は、1970年代の『校本宮澤賢治全集』編集者(入沢康夫、天澤退二郎、宮澤清六、‥)に共通する認識でしたが、
こんにちでは、すくなくとも宮沢賢治研究者の多くに共有されているものといってよいでしょう。
ただ、現在の時点では、さらにこれを超え出た議論がされています:
1 それはまず、作品作者としての宮沢賢治は、「永久の未完成これ完成である」という流動性にまったく身をゆだねていたわけではなく、やはり、(少なくとも生涯何度かの)完成された作品の概念を持ち、完成を目指して努力していたのではないか、ということです。それは、作品創造の方法が意識的であればあるほど、持っていなければおかしい概念であるわけです。
そして、各作品の完成度に対する評価を持ち、それによって完成品と未完成品とを取捨していたのは、間違えないと思われるのです。たとえば、文語詩について言えば:
「賢治自身の『文語詩稿』の完成度に対する評価は、『五十篇』を第一に、次いで『一百篇』、そして以下に混然として『未定稿』が置かれているという順序だったと見ることが出来る。」
3群の文語詩グループすべてにわたって、多くの原稿に記されている(了)
*4印の「存在は、定稿用紙清書以前のある時点で、一旦推敲を完了したと見なすことがあったことを窺わせる。」
*5
2 そうすると、晩年の文語詩群については、?「(了)」の段階、そして、?定稿用紙への清書段階
*6という2段階の“完成”があることになります。
*7
同様に、童話や口語詩についても、多くの作品を巻き込んだ何度かの“推敲・完成の波”があったと思われるのです。『春と修羅・第2集』については、「序詩」の書かれた時点での“完成テキスト”を復元する作業が、杉浦静氏によって試みられていますが、ほかの作品群については、“作品群をつらぬく推敲・完成の波”を辿りなおす仕事は、まだ手付かずの現状にあると思います。
「個々の作品単独に見る草稿推移以外の、層として扱うべき草稿推移の研究の必要性が改めて痛感される。」
*8
さて、以上、2回にわたって長い前置きを書いてしまいましたが、本題の「笛吹き少年」は、まだ登場していません。。。
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