笛吹き少年の行くえ(1)
Giton

死没直後は、この詩も有名になっていたようで、中原中也は酔うとしばしば、「そらには暗い業の花びらがいっぱいで‥」と放吟していたという証言がありますし、他方、浄土真宗の熱心な信者だった賢治の父・宮澤政次郎氏も、この詩を推奨していたようです。檀一雄『小説太宰治』,岩波現代文庫;栗原敦『宮沢賢治 透明な軌道の上から』1992,新宿書房,pp.246-247.なお、中也は幼時から生涯カトリック信仰に親しんでいたほか、15歳時に真宗の寺でひと夏を過ごしています。真宗・改革派の功績としては、それまで一般信徒には秘密にされていた『歎異抄』を広く紹介し、真宗信仰の啓蒙・近代化を図った。内村鑑三ら無教会派プロテスタントとも交流深く、機関紙『精神界』では平易な宗教講話のほか、ハウプトマン、イプセンなどの文芸論、『社会主義と婦人』などの新刊紹介も見える。栗原敦,op.cit., pp.8ff,47f. 「清沢満之や暁烏敏にとって、ギリシャ哲学をはじめとする西欧の哲学と、キリスト教の教義とは、自分たちの真宗信仰を新しい目で見直してゆくための大切な足がかりであった。」op.cit.,p.24.なお、梅原猛・訳注『歎異抄』,講談社学術文庫,2000,の「解説」も参考になる。後年の農学校教師〜羅須地人協会時代に、宮沢賢治からこれとほぼ同じ言葉を浴びせられたという証言がいくつかあります。つまり、賢治にとっても、これは長年の強迫観念(オブセッション)になっていたと思われるのです。『国柱会』の重要人物としては、代表・田中智学のほか、北一輝、石原莞爾(柳条湖事件・満州事変の首謀者)らがいます。賢治は、親友に送った手紙の最後に、「もう一度読んで見ると口語と文語が変にまぢってゐます これが私の頭の中の声です 声のまゝを書くからかうなったのです。」と記しています(1919.7.保阪嘉内宛[152a])栗原敦:op.cit.,p.422. 『形象詩集』1902,1906; 『時祷詩集』1905; 『新詩集』1907佐藤通雅『賢治短歌へ』,2007,洋々社,pp.12ff.栗原敦・他編『小沢俊郎 宮沢賢治論集・3・文語詩研究・地理研究』1987,有精堂,pp,100,109,116-117.栗原敦『宮沢賢治 透明な軌道の上から』,p.407.


   【1】 文語詩から口語詩へ、ふたたび文語詩へ


さいきん、宮沢賢治の文語詩が、再評価されています。

文語書きの賢治詩といえば、例の「雨ニモマケズ」があまりにも有名ですが、これは、死後しばらくたってから発見された手帳に、他の断片や経典の抜書き、および雑多なメモとともに記されていたもので、はたして作者は、詩作の意識をもって書いたかどうか、争いがあります。

戦前から戦時中にかけて教科書等に採用され、誤った《宮澤賢治=聖人伝説》を造り上げた功罪をもつ「雨ニモマケズ」ですが、没後3年目の1936年、故郷花巻の旧居跡に「雨ニモマケズ」詩碑が建てられたことが、この“詩”を有名にするきっかけとなりました。
しかし、この詩碑は、関係者らの当初の計画では、「雨ニモマケズ」ではなく、次の口語詩が刻まれる予定だったのです:


   業の花びら*1

 夜の湿気と風がさびしくいりまじり
 松ややなぎの林はくろく
 そらには暗い業の花びらがいっぱいで
 わたくしは神々の名を録したことから
 はげしく寒くふるえてゐる


もし、こちらの詩が採用されていたとしたら、《聖人》ではなく《暗黒の罪人=宮澤賢治》が誕生していたかもしれず、たいへん興味深いものがあります。

なお、この詩の「業」とはもちろん、仏教に言うゴウ(前世の善悪の行為によって現世で受ける報い) のことで、「花びら」は人の魂をイメージするものです。なべての生きとし生けるものが負う「原罪」の深さに、自己の「罪深さ」を思い、慄然とする心境でしょうか‥。
ここには、「善人なほもて往生を遂ぐ、いはんや悪人をや」という『歎異抄』の言葉に現れた浄土真宗的な「原罪」観、「宿業」観が、色濃く反映しているように思われます。

さて、だいぶ脱線してしまいましたが、宮沢賢治が文語詩の制作に集中したのは、晩年の数年間(1929-33)のことでした。中学生時代から高等農林学校卒業までは、もっぱら文語で短歌を制作し、教職に就いたころ、散文童話と口語詩を開始、そして最後の数年間は文語詩に戻る──というジャンルの変遷があります。これをいま、年譜形式にまとめてみると、次のようになるでしょう:


1910年(14歳)韓国併合。大逆事件。石川啄木『一握の砂』刊行。雑誌『白樺』創刊。
▼盛岡中学校2年。親友・藤原健次郎の死。英語教諭・青柳亮との邂逅。

1911年(15歳)大逆事件に大審院判決、幸徳秋水らに死刑執行。中国(清)で辛亥革命。
▽このころ短歌制作開始〔推定〕

1914年(18歳)第一次世界大戦勃発。田中智学、日蓮主義団体『国柱会』を設立し、日蓮宗の国教化を唱える。島村抱月、トルストイ『戦争と平和』を和訳刊行し、『復活』を上演。高村光太郎、詩集『道程』刊行。
▼盛岡中学卒業。『和漢対照 妙法蓮華経』を読んで感銘し、以後次第に日蓮宗に傾斜。宮澤一族は浄土真宗の篤信家だったが、同宗・改革派(清澤満之、暁烏敏ら)*2に私淑し、キリスト教、西洋哲学や他宗経典を積極的に取り入れていた。この『妙法蓮華経』も、盛岡の真宗僧・島地大等の編著。

1917年(21歳)ロシア革命。萩原朔太郎『月に吠える』刊行。『女軍出征』『カフェーの夜』等、“浅草オペラ”盛行。
▼盛岡高等農林学校2年。
▽保阪嘉内らと同人誌『アザリア』創刊、短歌と散文を発表。

1918年(22歳)シベリア出兵。米騒動、全国に波及。ユーゴー作『レ・ミゼラブル』の和訳本2種刊行。『赤い鳥』(童話詩欄担当:北原白秋)創刊、児童文学熱高まる。
▼盛岡高等農林学校卒業。保阪ほか1名、思想問題(?)で退学処分。宮澤は、ひきつづき研究生兼助手として土性・地質調査に従事するも、7月、肋膜炎に罹患し退職、花巻の実家に戻り家業(質屋)手伝い。

1921年(25歳)原敬首相暗殺。『国柱会』代表・田中智学、「日本国体の研究」を発表し“八紘一宇”を唱える。
▼1-9月、家出して東京滞在。『国柱会』奉仕とアルバイト。12月、稗貫農学校(1923,県立花巻農学校と改称)に就職。
▽文語短歌から口語詩への転換:『冬のスケッチ』制作(1921-22)〔推定〕。『愛国婦人』誌に、童謡「あまの川」、童話「雪渡り」掲載。

1922年(26歳)アインシュタイン来日。有島武郎、自有農場を小作人に解放。全国水平社、日本農民組合、日本共産党結成。ソ連邦成立。
▽口語詩『春と修羅(第1集)』制作開始(1922-23)

1923年(27歳)有島武郎の自殺。関東大震災。『国民精神作興に関する詔書』。北一輝『日本改造法案大綱』刊行。草野心平『銅鑼』創刊。
▼花巻農学校開校式で、自作の学校演劇(オペレッタ)を上演。サハリン旅行。
▽『岩手毎日新聞』等に、童話「やまなし」等、及び詩歌数篇掲載。

1924年(28歳)護憲三派内閣。小作調停法公布。文部省、学校演劇禁止を通達。
▼花巻農学校で、自作学校演劇を上演。
▽4月、『春と修羅(第1集)』刊行。12月、童話集『注文の多い料理店』刊行。

1926年(30歳)労働農民党(無産政党・左派)結成、盛岡、花巻に支部。共同印刷、日本楽器等、各地で大争議。中原中也、『春と修羅』を読み「朝の歌」完成、自詩スタイルを確立。
▼花巻農学校を退職し、開墾営農開始、『羅須地人協会』設立準備。高村光太郎を訪問。
▽口語詩『春と修羅(第2集)』制作(1924-26)。『銅鑼』ほかに口語詩19篇掲載(1925-26)。

1927年(31歳)金融恐慌。第一次山東出兵。
▼『羅須地人協会』を立ち上げ、私塾・営農・農村奉仕活動を展開。思想犯の疑いで警察の取調べを受けたが、その後も密かに労働農民党の活動を支援。
▽『銅鑼』ほかに口語詩5篇掲載。

1928年(32歳)張作霖爆殺事件。第1回普通選挙で無産政党躍進。治安維持法改正(死刑追加など)。労働農民党に解散命令。
▼肥料設計・営農支援に奔走するも、三・一五事件(共産党大弾圧)の影響で活動不能となる。
▽口語詩『春と修羅(第3集)』制作(1926-28)。『銅鑼』ほかに口語詩2篇掲載。

1929年(33歳)『国柱会』の石原莞爾、東条英機らと陸軍中堅将校『一夕会』結成。文部省社会教育局設置、思想対策を強化し教化団体総動員。光州学生事件(朝鮮独立運動)。
▼急性肺炎で病臥。
▽文語詩の制作開始〔推定〕

1930年 金輸出解禁により、世界大恐慌が日本に波及。浜口首相狙撃事件。台湾・霧社事件(高山族蜂起鎮圧)。
▽『文芸プラニング』誌に口語詩4篇掲載。

1931年(35歳)柳条湖事件、満洲事変勃発。三月事件、十月事件(軍部クーデター未遂)。
▼東北砕石工場に技師として勤務するも、肺疾で倒れ、以後病床生活。

1932年(36歳)上海事変勃発。血盟団事件。五・一五事件(犬養首相暗殺)。
▼『児童文学』誌の依頼により、『グスコーブドリの伝記』を執筆掲載。『銀河鉄道の夜』最終形成立〔推定〕。
▽文語文法と漢詩の再学習。8,11月、『女性岩手』誌に文語詩5篇掲載。『岩手詩集』に口語詩1篇掲載。

1933年(37歳)三陸大地震。小林多喜二の虐殺。日本の国際連盟脱退。ドイツでナチス政権成立。
▽『女性岩手』ほかに、口語詩9篇掲載。病床で文語詩の改稿・推敲を進める。9月没。


盛岡中学在学中の短歌制作は、卒業生だった石川啄木の影響、“文学青年”教師の感化、そして親友の病死という事件がきっかけになっていたようです。
しかし、独自性の強い歌風は誰にも理解されなかったため、投稿はいっさいしたことがなく、ようやく、1916年に歌友・保阪嘉内らとの出会いによって理解者を得、同人誌を発刊。保阪は、トルストイ流の農村理想主義に傾倒していました。
たとえば、1916年に保阪が書いて宮澤らと寮内で上演した戯曲「人間のもだえ」の最終シーンで、保阪、宮澤ほか1名の扮する全知・全能・恵みの3神は、声をそろえて次のように叫びます:


「馬鹿、百姓だ。人間はみんな百姓だ。百姓は人間だ。百姓しろ。百姓しろ。百姓は自然だ。」*3


しかし、それだけではなく、宮澤賢治が、日蓮宗の国粋主義団体『国柱会』*4に近づいて行ったのも、当時トルストイの紹介者だった島村抱月→坪内逍遥→田中智学という繋がりからだったと思われるのです。『国柱会』創立者・田中智学は、逍遥のほか、北原白秋や“浅草オペラ”人脈ともつながりが深く、文芸・演劇による布教を唱えていました。

ともかく、『国柱会』への傾倒が一段落した1922年、宮沢賢治は“短歌の時代”に終りを告げ、自ら《心象スケッチ》と名づけた口語自由詩に転換して行くのです。
1924年には、自費で『心象スケッチ 春と修羅』(第1集) を刊行します。

その後、作風には大きな変化があったものの、1929年まで、口語自由詩という形式は維持されました。

それがなぜ、最晩年は、文語詩に戻り、しかも7音・5音による非伝統的な定型詩形式の模索まで、しているのか?
これは、まだ十分に解明されていないのですが、これまでに、いくつか挙げられている理由は、次のようなものです:

 (1) 当時(1920-30年代)の地方の読者にとって、口語詩は難しくて理解困難なもの、むしろ文語和歌や文語詩のほうが理解しやすかった。
   端的な例としては、冒頭で触れた詩碑の建立も、“難しい”口語詩よりも、“わかりやすい”雨ニモマケズが選ばれたのです。

 (2) 「なぜ『口語』でなく『文語』がこれらにおいて選ばれたか」
   「無意識のうちに『文語』が混じるのは、生育期の時代と教養のなせるわざであった」*5「だがそれが意識化される時、定型化と典型化の意志が伴われていたことは確かである。」「方法が意識された時、その時の賢治にとっては、『文語』は意識された方法に対する距離の保証にちょうど見合うものだった」*6

 (3) 定型化によって、作者と対象の間に距離を置くことで、ロマンチックな主情を排し、客観的・即物的な彫塑を目指そうとした。これは、方向としては同時代のリルケ*7などにも見られるのですが、なぜ定型化によってなのか?
   これは、通常の日本の詩人・歌人とは逆なのですが(啄木短歌などは、定型であるがゆえに主情的・浪漫的)、宮沢賢治の場合には、初期の短歌時代からして非主情的な作風を特徴としていたのです*8

 (4) 「重篤な病床体験を通じて感じた生きることの喜びが、存在するものなべてへのいとおしみを生み出したということが背景にあった」。「心情の表出という個人感情への溺れを拒否し、説明という散文的要素を捨てた。」「現実の模写でなく、作品世界を構築しよう」とした。「その詩精神が〔…〕求めたのは、説明の排除、叙情の放棄だった。」*9

 (5) それでは、「説明の排除、叙情の放棄」によって、いったい、どんな“作品世界”が目指されたのか?
   文語詩における作者・宮沢賢治の目は、「この農家の生活、山村の労働と暮らしの深い実在感にまで」届く。それは、「若き日には必ずしも充分にくみと」れなかった人々の「生活の細部と重みとを」、読者の「目に見えるようにさせ」る視線であって、「人々の生存をそのようにあらしめている歴史、社会、自然にわたる諸関係の網目を」浮かび上がらせる視線だったのだ。*10
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*1 死没直後は、この詩も有名になっていたようで、中原中也は酔うとしばしば、「そらには暗い業の花びらがいっぱいで‥」と放吟していたという証言がありますし、他方、浄土真宗の熱心な信者だった賢治の父・宮澤政次郎氏も、この詩を推奨していたようです。檀一雄『小説太宰治』,岩波現代文庫;栗原敦『宮沢賢治 透明な軌道の上から』1992,新宿書房,pp.246-247.なお、中也は幼時から生涯カトリック信仰に親しんでいたほか、15歳時に真宗の寺でひと夏を過ごしています。
*2 真宗・改革派の功績としては、それまで一般信徒には秘密にされていた『歎異抄』を広く紹介し、真宗信仰の啓蒙・近代化を図った。内村鑑三ら無教会派プロテスタントとも交流深く、機関紙『精神界』では平易な宗教講話のほか、ハウプトマン、イプセンなどの文芸論、『社会主義と婦人』などの新刊紹介も見える。栗原敦,op.cit., pp.8ff,47f. 「清沢満之や暁烏敏にとって、ギリシャ哲学をはじめとする西欧の哲学と、キリスト教の教義とは、自分たちの真宗信仰を新しい目で見直してゆくための大切な足がかりであった。」op.cit.,p.24.なお、梅原猛・訳注『歎異抄』,講談社学術文庫,2000,の「解説」も参考になる。
*3 後年の農学校教師〜羅須地人協会時代に、宮沢賢治からこれとほぼ同じ言葉を浴びせられたという証言がいくつかあります。つまり、賢治にとっても、これは長年の強迫観念(オブセッション)になっていたと思われるのです。
*4 『国柱会』の重要人物としては、代表・田中智学のほか、北一輝、石原莞爾(柳条湖事件・満州事変の首謀者)らがいます。
*5 賢治は、親友に送った手紙の最後に、「もう一度読んで見ると口語と文語が変にまぢってゐます これが私の頭の中の声です 声のまゝを書くからかうなったのです。」と記しています(1919.7.保阪嘉内宛[152a])
*6 栗原敦:op.cit.,p.422.
*7 『形象詩集』1902,1906; 『時祷詩集』1905; 『新詩集』1907
*8 佐藤通雅『賢治短歌へ』,2007,洋々社,pp.12ff.
*9 栗原敦・他編『小沢俊郎 宮沢賢治論集・3・文語詩研究・地理研究』1987,有精堂,pp,100,109,116-117.
*10 栗原敦『宮沢賢治 透明な軌道の上から』,p.407.



散文(批評随筆小説等) 笛吹き少年の行くえ(1) Copyright Giton 2014-09-05 17:49:29
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宮沢賢治詩の分析と鑑賞