湯豆腐と冷奴
salco

 冬になるとおでんなどの他に、父は湯豆腐を作った。というのは共働き
の妻が相当料理下手だった。正確には家事全般に不向きな人で、冷蔵庫の
冷凍室に恒久鮮度を見、洗濯機には水流が回らないほど詰め込み、隅々に
漂う綿埃が気に留まらず、着なくなった服やボロ布を捨てるという発想が
ないので押入れの開け閉てがまるで岩戸だ。
 戦中戦後の青春で培われた価値観もあろうが、思考回路の或る方面に徹
底して伸びしろがない、これは性格の構造としか言いようがない。愛情や
覚悟、また生活力は別として、学科で誰より勝っていたいという学生時代
の向上心を、その挫折後に実生活の細事へシフトできなかったという意味
では、本質的に不器用な人だったと言える。
 こういう母でもご飯ぐらいは炊けるので、電気炊飯器を仕掛けると芯が
残るのは日常茶飯、ポソポソだったりグチャグチャだったり結構な頻度で
上がりが異なった。確か東芝の、その頃の内釜には目盛がなかったのかも
知れない。しかしヌカ臭くて食べられない時もあった。
 後年、飼っている大型犬が母の食べ残しにプイと顔をそむけてとうとう
口をつけなかった事がある。それを私達は笑いの種にしたが、嗅覚と味覚
も先天的におかしかったのかも知れない。姉や私が中学の初日から自分で
弁当を作る事にしたのも、二、三十分早起きして小学校での調理実習を総
動員した方が得策と考えたからだった。ギュウ詰めの白飯と丸めたアルミ
ホイルしか見えない兄や弟の分も詰め直す。他人の目が及ぶ食事に美意識
は欠かせない。

 そんなわけで、大きなアルマイトの両手鍋の中心に、伏せた茶碗か何か
を台にして蕎麦猪口か湯呑を置く。そこにドボドボと醤油と山盛りのかつ
お節を入れ、すり生姜少々と小口切りの白葱をドカドカ入れる。周囲に水
を張り、銀ダラの切り身と絹ごしを入れて火が通れば出来上がり。
 かつお節は削り器を足裏で挟んで掻いたもので、子ども達や母がカシカ
シ削ると抽斗には粉しか溜らないのに、父だとヒノキのかんな屑みたいに
立派なのが出来た。
 私は、タラという魚は何故こうも臭いのだろうと好まなかったが、父は
タラやニシンなど北海の魚に目がなかった。棒ダラも新聞紙でくるんで玄
関の三和土に持ち出し、げんのうでガンガン叩きほぐしたのをよく酒肴に
していた。生まれ育ちは東京でも両親が東北出で、何でも濃い味だった。
八十過ぎまで生きた祖母の最期は癌だったが、祖父は冬場の便所で脳卒中、
父自身は春先に心筋梗塞で死んでいる。共に六十代早々で、そんな血管に
なるほど「濃い」のだった。


 夏は冷奴にする。アルマイトの鍋と猪口まで中身は一緒で、タラと火が
入らない。
 その頃豆腐は近所の豆腐屋で買うものだったのでおいしかったのだろう、
小学二年生の私は食べ過ぎたか冷やしたかでお腹を壊した。記憶にない腹
痛という意味に於いてはこれが初食あたりで、落ちたら地獄の非水洗便器
にまたがったまま自分は死ぬのではないかと、これまた初めて思った。と
ても一人で耐え抜けそうになく、これも初貧血を起こしかけて中から父に
助けを求めた。どんな風に助けてもらったかは忘れてしまったが、二度と
冷奴は食べまいと心に誓ったのだった。
 木造校舎の便所を漂う赤痢の面影にまだ白い消毒液を撒いていたような
時代、何を食おうが己の殺菌パワーと消化力でねじ伏せて来た子がこうな
るのだから、冷奴は子どもの胃腸に適した食べ物ではないのかも知れない。
尤も、下したのは家族で私だけだが。

 その後だから、三年生か四年の頃、尿意で夜中にトイレへ立った。もう
暗闇も便槽の穴も怖がらずに寝ぼけながら一人で行き、しっかり便器にま
たがって用を足した。しかし実際は口の上だったらしい。鼻が悪い為、熟
睡時の父はいつも大口を開けていた。勢いよく目覚めた父は私を抱えてト
イレへ走り、時すでに遅しだったと翌朝聞いたが、私にはトイレで済ませ
た記憶しか残っていないのだ。


散文(批評随筆小説等) 湯豆腐と冷奴 Copyright salco 2014-09-04 23:20:59
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