続・詩のしくみについて (折口信夫とわたしの因果関係を妄想する)
たま

民俗学者折口信夫が唱えた学説は「折口学」と呼ばれますが、わたしはその折口学の信奉者なのです。

といってもその信奉の歴史はごく浅くて、わたしが折口学と出逢ったのは二年ほど前のことでした。それは折口信夫に纏わる評論だったのですが、小説は読んでも評論はあまり読まない方でした。面白くて、ためになる(詩や小説といったわたしの創作に活を与えてくれるのも)そんな評論に出会わなかったということでしょう。それで、たまたまその評論も就寝前の睡眠剤のつもりで、斜め読みしながら、うつらうつらと瞼が心地良く重くなり始めたそのとき、霊魂(たま)と、ルビがふられた漢字が眼に飛び込んだのです。

霊魂という漢字そのものはわたしにとって何の変哲もない言葉だったけれど、そこにふられていたルビをみてわたしは衝撃を受けることになるのです。

わたしが「現フォ」に入会したのは四年ほど前のことで、そのとき、ハンネをどうするか迷って犬好きのわたしは「ぽち」を希望したけれど先客がいました。それで、じゃあ、猫になろうと思って「たま」になったのです。そんな「たま」が(霊魂)に化けるなんて夢にも思わなかったのは、わたしの勉強不足というものでしょう。

折口信夫は霊魂を(たま)と呼んだ。その(たま)とは神のことであるらしい。神社の境内に敷き詰められた玉石は、玉(たま)つまり死者の霊魂が宿る石という意味だという。古代の人々にとって神とは森羅万象に存在するものであったから、海辺に打ち上げられた小石のひとつひとつにも神が内在すると考えた。特に海岸線には神に通じるものがたくさんあるという。それは神が海からやってくるという祝祭が海辺の集落にあったという事実。日本は海辺のクニといえるでしょう。

そんなわけで、わたし(たま)にとって折口学は他人ではなくなったわけです。そうして折口信夫に係わる評論を読み漁ると、驚いたことにそこには「詩の入口」らしきものが待ち構えていたのです。
まさかこんなところに詩があるなんて、という思いが半分と、いや、詩がここにあって当然だという思いが半分。折口学はいわば詩の博物館、もしくは詩のタイムトンネルであるかもしれないという確信が生まれたのです。

折口学といっても、知らないひとは知らない。かといって、ここで説明できるほどわたしも深く知らなくて、でも何も説明しなかったら、知らないひとに申し訳ないから、少しだけ、わかってる範囲でと思いますが、けっして鵜呑みしないようにしてください。

折口信夫(おりぐちしのぶ)は知らなくても、遠野物語の柳田國男は知っている人は多いと思う。折口の民俗学は柳田を師匠として始まったみたいですが、折口は柳田とは異なる方向へと進みます。
というのは、折口には神学というライフワークがあったからです。神学者です。柳田は学者ではありません。政府の官僚でした。だからというのではないが、柳田は折口の古代神学を認めませんでした。日本の神、つまり天皇について、折口は万世一系ではないという大胆な結論に達したからです。天皇もまた神に憑依された人間に過ぎないというのです。(天皇の場合は憑依とは言いませんがややこしいからパスします)

その神学と民俗学が結びついて、折口学が誕生したのです(たぶん・・)が、折口学の骨格は「ことば」でした。つまり(言霊)です。神もしくは、詩へと、導くもの、それは唯一「ことば」だったのです。そうなると、わたしはもうすっかり折口学を信用してしまいます。だって、詩人ですもの。

詩はどこにあるのか? それはわたしの長年の課題でした。そこにたどり着くための入口が日本の古代神学にあったとしても不思議ではありませんし、拒む理由もありません。その古代について折口学から学ぶことも、決して間違っているとは思いません。折口の神学は歴史以前の台湾や琉球といった地方の古い祝祭を検証した上で生まれたものです。だから、頷けるです。それで、その神学についてはややこしいのでパスしますが、折口はその当時の西洋神学についても探求していますから、日本古代の神学であっても地球大の神学といえます。

そもそも、神はどこに存在するのか、そして、いつ、我々の元にやってくるのか? それは神学の永遠のテーマではないかと思います。神そのものについて、日本は一神論ではありませんから、様々な姿かたちした神が存在するのです。
それで、詩も同じではないかということです。様々な詩が存在するのです。問題はどこに存在して、いつやってくるのかということです。

そうなると、もうひとつのテーマが生まれても不思議ではありません。つまり、わたしたち人間は神に近づくことができるか? というものです。折口学には有名なマレビト論があります。これは神が人間に憑依して、マレビトなる人間神が誕生するというものです。
マレビトとは平たく言えばシャーマンです。神の使いというものですが、わたしはそうとは受け止めません。間違いなく神そのものになるのです。それはたぶん、人間の能力のひとつだという確信のようなものがあります。だからこそ、人間は時として神の空間に存在して詩が書けるのです。
わたしたちは様々な神と共存するが故に、神になることもできるということです。

詩はどこにあるのか? 別に、どこにあってもいいような気がします。なのに、どうしてそんなことを気にするのでしょうか。わたしにとってその理由はたったひとつです。
「新しい詩」もしくは「新しい小説」を生み出したいという願望があるからです。
そのためには、詩の存在を証明し、自明にする必要があるとわたしは考えたのです。しかし、それは哲学ではありません。わたしは「しくみ」だと想うのです。それで、その「しくみ」を支える力、たとえば、重力のようなもの。それがどこかに存在するはずだという推論です。

もういいでしょう。その力とは(神)だったのです。
そして、その力を得るために、わたしたちは神になるのです。

でも、それは永遠ではなくて、ほんのひととき、または数日間といえるでしょうか。詩を書くためにはそれで十分だからです。贅沢な言い分ですが、永遠は拒否します。わたしたちは新興宗教の教祖になりたいわけではありません。詩を書きたいと望むだけですから。

それで、神になって「新しい詩」が見えたかというとそうでもないのです。わたしたちはもうすでに神になって詩を書いています。もし、「それ以上」を望むのであれば、生まれ変わることです。
つまり、いますぐに死を選んで、新たな神に生まれ変わるということです。
できるでしょうか? 
文字通り、それが「詩の入口」なのです。


では、さいごにもう一度、言います。


詩と死は同意語。

神と紙は同意語・・・、それでいいのです。






             詩のしくみについて (了)



























散文(批評随筆小説等) 続・詩のしくみについて (折口信夫とわたしの因果関係を妄想する) Copyright たま 2014-07-16 14:24:19縦
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