祖母の瞳は日に日に還る
亜樹


 あら、また来たの、と祖母は言う。
 ああまた来たよと私は答える。そうは言うものの、彼女が孫である私のことなどこれっぽっちも覚えてやしないので、私はまたいつものように自己紹介をした。
 それがいつから始まったのかははっきりしない。思えばそれは叔母が意気揚々と祖母に食器洗濯機を買い与えた頃からではなかったのか。けれどもそれを言えば叔母が気を悪くするだろうから、私はずっと口をつぐんでいる。
 食器位自分で洗えるわ、と祖母は確か憤っていたはずだ。思えば彼女はいつも怒っていた。子供心に「凛とした」とは祖母のことを指すのだと私は知っていた。
 けれども今、彼女はいつもだらしなく笑っている。あなたのこと知っているのだけれど、ちゃんと覚えているのだけれど、どうしても名前が思い出せないの、のポーズであることを私は正しく知っていたので、きちんといつも自己紹介をする。
 数年前、隣の空き地にマンションが建ち、この古い家は前にもましてぐっと日当たりが悪くなった。日照権を争った裁判は早々に負け、祖父はその日のうちに庭にあった大きなざくろの木を切り倒してしまった。
 けれどもその祖父ももういない。外の寒さなどかけらも知らない暖かな部屋の中で、私は口をつぐんで祖母の瞳をじっと見つめる。左目は私が生まれて間もないころに白内障にかかり、もうまったく見えていない。その青白い濁った色が、私の知る祖母の色だった。
 いつも何かに憤っていた、その目が今はひどくあどけない。
 私が年を取ったのを同じように、彼女はゆっくり子供に戻る。
 
--きょうだい、なかようせなあかんよ

 彼女の頭が今よりずっとはっきりしていたころ、彼女は繰り返しそういった。それからしばらくして、彼女の口から出るのは恨みつらみの積もった、ほの暗く重たい呟きだけだった。
 それはたとえば戦争で皆死んだ兄弟のことだったり。
 御嬢さん育ちで何もしない母親のことだったり。
 そんな田舎には帰りたくないと、結局疎開先から一度も帰ってこなかった末の弟のことだったりした。
 彼女の具合はいよいよ悪い。とうとう娘のこともわからなくなったと叔母が嘆いていた。
 けれどもそれがそんなに悪いことばかりでもないような気がする。あの頃来る返し繰り返しつぶやいていた怨嗟もみんな、彼女は忘れてしまったのだろうから。
 他人の私は口を利かない。青灰色の瞳を見ながら、あどけない幸せな思い出が彼女の口からこぼれ出る日を、今か今かと待っている。






散文(批評随筆小説等) 祖母の瞳は日に日に還る Copyright 亜樹 2014-02-11 22:16:12
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