【レビュー】雲雀料理11号の感想 3/4
mizu K


■ 市村マサミさん『ゲロリスト』http://hibariryouri.web.fc2.com/11/ichimura1.htm

吐瀉物が色とりどりでたいへんサイケデリックな光景である。

私たちにできることはひたすら吐くという行為だけ。そうやって〈街をカラフルに汚〉すことが〈歓迎のパーティ〉になる。ひどいにおいのパーティにお見えになるのは〈お偉いさん〉で、〈お偉いさん〉は当然お金を持っている。それからカネを持った人々が〈異臭がするところに〉やってくるのである。そこには〈ハエ〉がいるから。〈ハエ〉はカネをもたらす。カネをもっている人々はもっとカネが欲しい。誰よりもたくさん欲しい。あればあるだけ欲しい。全部欲しい。そうした人たちがお金を持ってくると、その場所ではカネがまわるようになる。金銭が動く。すると経済が動く。結果として私たちに仕事がくる。ああ、これで食える。食いっぱぐれずにすむ。ありがたや。

そこでさっきの〈お偉いさん〉がやってきて、どうだ、仕事がなくて、カネがなくて、今日明日に食べるものも事欠いている君たちに救いの手をさしのべに来てやったぞ、感謝したまえ、ぬかずきたまえ、はっはっは、と笑う。そういう〈お偉いさん〉の言動が、ちくしょう俺たちの吐いたものにつられてやってきやがったくせに、と気に入らないのだけれど、無下に反発することもできない。くやしいがカネは欲しい。欲しいのだ。喉から手が出るほどに。

そういうジレンマを、〈それも僕らの悲しい性だ〉と言う。言ってしまう。言いたくもないが言わざるをえない。気にくわない〈お偉いさん〉を、蛾を誘う電灯のように魅きこんでいるのは、くりかえすが、私たちの吐き出すものなのだ。それを使ってつくられた〈いろとりどりのカナッペ〉は、毒々しいほど鮮やかで、どうしようもなく嫌悪を催させ、それでもありえないほど魅惑的に、それが口の中に放りこまれるのを今か今かと待っている。それが釘や金属片を仕込んだ爆弾だとしても、カネに捕われたものにとって、やはりその誘因力はあらがいがたい。



■ 市村マサミさん『地下鉄の粘菌』http://hibariryouri.web.fc2.com/11/ichimura2.htm

地下鉄のトンネルは生きている。

というと何のことかといぶかしがられるかもしれないのだけれど、地下鉄の、あの長く昏くつづく細長いチューブを生物の内臓に喩えたのはたしか日野啓三だったと記憶している。新陳代謝をくりかえすようにいつもどこかが工事中。地下鉄が通過すると壁といわず、線路といわず、トンネル全体がふるえているのは蠕動運動する腸のようだ。地下水の滲出による湿潤もぬめぬめとした生物の体内を思わせる。うろうろするネズミや屋外にいる家庭内害虫Gは、さしずめ腸内の微生物といったところか。その微生物のなかに「粘菌」が含まれていてもおかしくはない。体内に入った食物は、当然分解され、吸収されなければならない。そうすると作中の「粘菌」は、分解者としての役割をになっていると考えてもいいだろう。

地下鉄を日常的に利用する詩の語り手は、単純に地下鉄を移動の手段として利用している。地下への階段を降り、改札をぬけてホームに立ち、やってきた列車に乗り込み、がたごとという振動と悲鳴のような風切り音を聞いて、数駅を過ごして、目的のホームで降車し、歩き、改札をぬけて階段をのぼり、出口から地上の喧噪のなかに戻る。晴れていれば陽射しが肌をさす。そしてそこから目的の場所へ歩く。靴底をすりへらして。

翻って「粘菌」にとっては、地下鉄内が生活圏であり、トンネル内を自由自在に行き来している。その役割は、侵入してきた「食物」の分解である。侵入者を待ち受ける「粘菌」と、侵入する詩の語り手とは、捕食者/被捕食者の関係になり、そこに会話が成立する余地はない。食うか食われるかである。

黄色い粘菌は、詩の語り手の背広にぺたりとくっつく。彼がはじめはとまどい、それから嫌悪をもよおしはじめたころ、粘菌は彼の背広を溶かしはじめる。酵素を分泌して分解を開始する、ともとれる。粘菌の出した〈黄色いの〉はとれない。〈カビみたいなにおい〉がただよう。彼は鏡をみる場所にいる。洗面台のあるところ。水道の蛇口からぽたぽたとたれるしずくが排水口にすいこまれている場面を私は想像する。

彼の遭遇した「粘菌」とはなんだったのか。すごくありがちな解釈かもしれないけれど、それは、解離した自己、ということになるのだろう。毎日毎日、同じ地下鉄を利用することに倦みはじめていたころのこと。粘菌をはじめ遠目に見る。彼は問いかける。〈あんなふうにしていて粘菌なんてやつは/幸せなんだろうか〉。それはそのまま「こんなふうにしていて俺なんてやつは幸せなんだろうか」と自問していることになる。それから徐々に粘菌が彼を浸食しはじめる。粘菌は彼を食ってしまうだろうか。彼は食われるのだろうか。自分自身に。そのあやうい均衡の中途で、この詩は結ばれている。



■ 市村マサミさん『繕い』http://hibariryouri.web.fc2.com/11/ichimura3.htm

「食う」と「吐く」、あるいは「はねる」と「拭く」、ほかには「繰る」と「返す」、「爆ぜる」と「掃く」。反復される対照的なことばの流れが、糸の動きを連想させる。なにかを「繕って」いる。どこかが破れ、裂け、ほころび、傷口をみせているのだろう。どこかに不具合が起こっており、そこを修復する必要がある。バグを取りのぞいて修正されなければならない。「繕」われなければならない。しかしながらその「繕い」の行動にはリスクがともなう。行動の結果、〈墓石 見えて〉、つまりは死にかけることもある。そうであるならば、それは詩の語り手にとって命がけの行動なのだろう。

「繕う」ためには糸がなければならない。私は最終連に出てくるいくつかの色を、縫うための糸と考えてみたのだけれど、そうすると次のような読みもできるのかもしれない(まったくの見当違いかもしれないけれど)。

この反復される繰り返しを「日々の営み」とすると、その日常生活、労働において生じる、はじめは小さな矛盾、違和、背反、バグ、だが放っておくとすこしずつ増大していって、やがてにっちもさっちもいかなくなる、そういうものがある。気がつけばじわじわと真綿のように自分の首を締めてきて、ああ、なんだか苦しいな、目の前がくらいな、どうしたのかな、かすんだ靄の先に墓石が見えるよ、なにか書いてあるな、名前だな、ああなんだ、自分の名前じゃないか。合掌。

そうなる前に、その真綿からでもいい、糸を紡いで、そのほころびや裂傷を縫い、繕っていく。だがそれは永遠に終わらない。生きているかぎり続いていく、その延々と繰り返しをもとめられる作業に、詩の語り手はややうんざりしているようにみえる。どうしてこうなった、と困惑する気配も感じられる。だがどこかでこれらを一笑に付すようなしたたかさもあるようだ。

最終連の糸、それによって繕われたものは、糸が通る以前のそれに比べると、いくぶん不格好であるかもしれない。すこし捩れているかもしれない。すこし波打っているかもしれない。けれどもそれぞれの色に彩られていて、以前よりもすこしだけ、強靱になっているはずだ。




散文(批評随筆小説等) 【レビュー】雲雀料理11号の感想 3/4 Copyright mizu K 2014-02-03 00:09:31
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