【レビュー】雲雀料理11号の感想 2/4
mizu K


■ 田代深子さん『後日譚』http://hibariryouri.web.fc2.com/11/tashiro.htm

からくさ模様のように蔓が〈伸び〉、いろいろなものが〈伸び〉て、〈延び〉て、〈のば〉されている。任意のあるものがのびるためには、時間、を必要とするのだが、それはつまるところ、人がのびているのを認識することが、その人の時間が経過していることと同義だからともいえる。作中の時間の流れは、回想的な過去から現在、および現在進行形の語り手の体験の逐次的描写によってすすむ。作品タイトルの『後日譚』から想起させられる、本編終了後のエピローグ的な、「何かが終わった感」もしくはある出来事や気分を締めくくろうとする気配は多少はあれど、それがすべてではないように私には感じられた。

辞書を引けば「譚」の文字には、はなし、ものがたり、かたる、はなす、という意味のほかに、「のびる」という意味もあるようだ。じつは「後日譚」とは、「後日のびる」で、それが変じて、「後日へのばす」ことではないかと思ったりする。この詩では、後日譚(エピローグ)をやや意識させる話しぶりと、今現在よりももっとあと、未来のこと(後日)へ向けられた意識、それらが作中で曖昧に混交して、作品の意図を明確につかもうとする読者の手をするりとすりぬける。

どこか淡々とした一定的な日常描写で、その生活を送っている詩の語り手の回想が「伸び縮み」して、やや厭世観をかもしながら、あっちふらふらこっちふらふらしつつも、それは空間的、時間的、生物的その他もろもろの境界を飛びこえてどこか超越的になりながらも、その後語り手のもとへまたすとん、と着地してくる。そのたしかさ。不安定ななかの安定感。どこか迷いながらもそれにのみ込まれず、どこか一歩はなれている視線の柔軟な印象。将棋でいうなら「5二玉型中原囲い」(わかりにくいたとえだ……)。

そして詩の語り手の視点の立脚点がどこにあるかというと、私たちの日常ってなんて輝いてるんだろーウフフフフ的なものではなくて、もうすこし本質的な部分というか深層において、生命の生き死にの沼のなかに沈んで、くらいなあ、なにも見えない聞こえないなあ、太陽も月も星も何回まわったかなあ、息もできなくて苦しいなあ、でもまあいいか、と思いながらなんとか生きていく、とりあえず食っていかなきゃならん、ということであったりすると思う。

日々の生活の中では当然激怒することもあり、悲嘆に暮れることもあり、絶望にうちひしがれることもある。だが外を歩いているとき、人々はあまりそういう感情を表に出さない。たとえば、いま電車の向かいの席に座っている人が、もしかしたら借金抱えて首がまわらず今日中に死ぬ覚悟を決めているかもしれないなんて、こちらは知るよしもない。たとえそれを知ったとしても、そこで心みだれることがあるかもしれないけれど、自分には自分の人生があると覚悟を決めている。その出来事は世の中にある無数の〈どうともならぬもの〉のほんのひとつだから。それを冷酷だ、と思う人もいるかもしれない。だが世界中のすべての人々、すべての物事、すべての事象とひとしく深く関わることなど到底不可能であり、ならば自身でできることを、我が身のキャパシティをこえない範囲で、ひとつひとつ行う。矩を踰えず。〈そういうもの〉とは、そういうものだ。



■ 落合白文さん『マクドナルド』http://hibariryouri.web.fc2.com/11/ochiai1.htm

印象にのこるいくつかのシーンが、映像的な余韻をのこす。そのままショートフィルムにでもできそうな作品と感じた。すこしだけ想像してみよう。冒頭1連目を独白する男性の声。2連目の少年が水たまりに手をつっこんで拾い上げるシーンから、遠くに投げる動作、空まで届くほど高く放り投げられて。暗転して、地下鉄のゴトゴトいう音と規則的な間隔で後方に流れる電灯、窓にうつる横顔。ビルの谷間に浮かぶ太陽の赤さと、アップに映された充血した目との交互のカット等々。

さて、作中の鍵になる言葉はなにかと考えてみると、私は「感情」と「微笑」ということになるのではないかと思った。微笑について形容する語にはどんなものがあるだろうかといくつか挙げてみる。やさしげな微笑、やすらかな微笑、おだやかな微笑、はにかんだ微笑、天使の微笑み。あるいは困ったような微笑、愛想のよい微笑。ほかにはさげすんだ微笑、苦り切った微笑、うわべだけの微笑み、もあるかもしれない。マクドナルドなら0円でスマイル。

ここで1連目の〈ある感情について多くの言語表現があるとするならば、/その感情は文字で表現するのは不可能だと。〉の部分に着目してみる。ここの〈感情〉を〈微笑〉に置き換えてみるとどうだろう。「ある微笑(という行動)について多くの言語表現があるとするならば、/その微笑は文字で表現するのは不可能だと。」こういうことになる。

微笑については上にあげた例のほかに無数の形容表現があるだろうし、幾多の「微笑」の種類がある。「微笑む」という、ある種独特で曖昧な感情を表現するこの行動をそれぞれ正確に意味づけし文字化していくことは、はたして可能だろうか。たとえば、作中Mの字を書く〈そいつ〉の「微笑」は、0円スマイルとの明確な区別をつけることはできるだろうか。もしかするとマクドナルドでのスマイルは〈案山子のような心〉でなされるときもあり、見事に仮面の微笑を見せられる場面もあるかもしれない。「クソムシが」とか思ってる店員さんもいたりして。露骨にひきつってたら、無理してるなーと容易に推し量れるけれども。彼の「微笑」の意味もそのときの感情も、そういうわけで、ようとしてうかがいしれない。



■ 落合白文さん『星座』http://hibariryouri.web.fc2.com/11/ochiai2.htm

冒頭、それ(星座をさすと思われるが)を描く道具として、まっさきに鉛筆が否定されている。それならば、と詩の語り手から示される代替品が、〈骨〉であった。幼年のプラトンが地面にむかって一心不乱に描いている光景。石畳にうかびあがる神話の神々は、洞窟の奥に浮かびあがるイデアの幻影のように、〈バスルーム〉に立ちのぼる湯気のように、ゆらゆらとして、どこかはかなげでこころもとない。明日には、そこらを歩く人々の足にかきけされるかもしれない運命。

あるいは〈啓蒙主義の心理学者〉およびその「指」について考えてみる。おそらく細く繊細で神経質で筋張っている指、と私は勝手に想像してしまうのだが、ここでの学者の指は、どうにも「骨」を意識させるように感じる。指、つまるところの骨と会話する〈啓蒙主義の心理学者〉。もし学者が骨と会話するのならば、将来の大哲学者プラトンは、その指に持つ骨でもって同様に「会話」できただろうか。

〈作品〉を描く途中のプラトンは、〈作品を完成させるまで誰とも口をきかなかった〉。なるほど、たしかに彼は誰とも会話をしなかった。だが、それは「周囲の人々」と、「音声」でもって会話をしなかったのであって、すぐさま彼が会話という行為をしなかったことを明らかにするものではないと思う。では誰と会話していたか。

結局プラトンは、路上において(この「路上」も哲学的な意味合いを有しているのかもしれない)、自分の描くものと交感によって会話していたのだろう。彼に描かれる星座の人々、動物たち、竪琴、神々と。その指でもって。骨でもって。

その「会話」のなかにいるのが〈わたしたち〉である。〈会話の中に、/登場〉する〈わたしたち〉とは誰なのか。それは、たとえば学者の思索のなかで火花のように発露する叡智そのものであり、路上に描かれ翌日には消えているであろうものに宿っているものである。そして昼には消え夜には出現するあの夜空の星星のどこかにも「わたしたち」は存在するのだろう。





散文(批評随筆小説等) 【レビュー】雲雀料理11号の感想 2/4 Copyright mizu K 2014-01-30 21:15:19
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