【レビュー】雲雀料理11号の感想 1/4
mizu K


『雲雀料理11号』 http://hibariryouri.web.fc2.com/#11 の感想をすきかって書いてみました。
web媒体でも読めますが、紙だとイメージがまたがらりと変わるので冊子購入もおすすめデス。

■ 凡例:作中からの引用はおおよそ〈〉で表記。「」も結果的に引用になってるところもあります。そこは文脈で(なんじゃそりゃ)。〈〉だらけで煩雑になりそうな部分は適宜省略。



■ 軽谷佑子さん『夢をみなくとも』http://hibariryouri.web.fc2.com/11/karuya.htm

1連目。その最終行にこの詩で一箇所だけ読点がうたれている。「わからない。」でも「わからない!」でもなく、〈わからない、〉と、句点や感嘆符でなく読点によって断定することを回避しているのだが、これはどういうことなのだろうと思ったが、私も「わからない」ので先を読み進めることにする。

秋に紅葉した葉は、はらはらと散って地面に落ちる。人や車やけものに踏みしだかれて〈こなごなに〉なるわけだが、ここでの〈祖母〉の〈床に足のつかない〉という表現からは、どこか枝に宙ぶらりんのまま紅葉し、赤茶けて、色あせていった1枚の葉をおもわせる。あるいは、病、秋の葉という共通点から、オー・ヘンリーの『最後の一葉』をなんとなく連想した。

人は死ぬ。それは遠くの知らないだれかであっても、とても近しい人にであっても、やがて死は平等に訪れる。だが、生きている者は生きなければならない。生き続けなければならない。息をすること、体を動かすこと、ものを食べること、眠ること。あるいは、天体の運行、月の満ち欠け、気象の変化。だがそういった内在的、外在的なもろもろのことについて、私たちはほとんどそれらを、「それ」と意識せずとも、―なんとなく―日々の生活をおくり、その結果生き続けている。それははたしてよいことなのだろうか、わるいことなのだろうか。それは「わからない」。だがそこで「わからない。」と句点で断定し固着した結論を導くのではなく、〈わからない、〉と読点によって考えを持続させること、「考え続けること」が重要なのだろう。

日常の生活におわれ、そのなかで人が忘れたふりをしている様々なものごと。それらについて気づかせるのは、夜の闇と静寂だ。それは残酷なほどに突きつけてくる。おまえは生きている、おまえは息をしている、だがおまえの息はいつか止まる、いつか止まっている、そしていつか死んでいるのだ。

それでも私たちの外側にある天体の運行はとどこおりなく行われ、月は満ちては欠けてを繰り返し、天気はいつもどおり西から変わっていき、季節はめぐる。その繰り返される時間の堆積、それが井戸の底へ落葉のように降りつもってくるような場所から遠い遠い上空の丸い空を眺めるように、私たちは死におびえながらも、〈わからない、〉という読点による思考の継続によって踏みとどまり、窓辺から〈月の出を待〉ち、それからその窓辺を(離れ〉、カーテンを引き、明日のための準備をし、羽毛につつまれ、ねむりに落ちる。



■ 原口昇平さん『(詩句の終わりにようやく)』http://hibariryouri.web.fc2.com/11/haraguchi1.htm

詩の「タイトル」というものは、読者にとって、読もうとする作品を知るためのもっとも重要な手がかりのひとつになるだろう。ところが、作品によっては詩の1行目がそのままタイトルになることがままある。あるいは無題。それには、たとえば書き手が、詩全体の印象を大きく特徴づけるタイトルの提示を回避することによって、読み手になるべく先入観をあたえないように企図する場合が、ときとしてあるように思う。この詩においては、私たちはタイトル(の箇所にあるべき1行)と、それに連なる1行目を、「詩句の終わりにようやく/詩句の終わりにようやく」と詩の語り手のつぶやきを2度聞くことになり、その反復される詩行のリズムにみちびかれて、作品のなかに分け入っていく。括弧でくくられているがゆえにそのつぶやきはさらにか細い。そのような詩の語りは、気をぬけば聞き落とすほどのかすかな声でなされるのだろう。ゆえに読み手は聞きもらすまいと注意深くその声に、耳をすます。

〈きみ〉は沈黙し、〈おはやし〉の音は聞こえない。だが耳もとを通りすぎていくのは認められる。ものおと、ざわめき、さんざめき、足音、笛の音、太鼓の音、ひとびとの声。まるで音を消したディスプレイごしに流れる映像を眺めているようだ。もしくは手持ちのビデオカメラで撮られた、ゆらゆらとおぼつかなく映しだされる風景を想像してもいいかもしれない。そこにいる人々は実在しないようで、幽霊のようで、次作の『(ランナー あるいは破裂する風船)』に登場する透明人間のようでもある。だがそこに映っている人々は、血の通った人間であり、まぎれもなく存在している。あるいは存在していた。

仮定の話をしてみよう。もしも私がある物事をすすめるにあたって、それに懸命に取り組んでいるとする。けれども、自分がその渦中にいると、あまりにもまわりがみえず、その案件がほとんど終わりをみせるときになってようやく、はた、と気づいて、ああ、あのときああすればよかった、こうすればよかったと後悔して、ぶつぶつと煮えきらない思いをいだくことがある。それを現代社会に置換してみると……、というのはあまりにもありきたりな方法かもしれないが。しかし、〈ずっとそばにいたことに気づいた〉のは、〈詩句の終わりにようやく〉至ってからであった。私たちはまだとりかえしがつくのだろうか。

というのは、私はこの作品にすこし政治的な含みを感じたからで、しかし、おそらくこの詩が書かれた当時と現在とでは、あれこれと状況がまた大きく変化している。もし今現在においてならば、語り手のつぶやきはどのように変化しているだろうか。今が戦後か戦時か平時かあるいはすでに戦前であるのではないかという議論は以前からあるのだろうけれど、いまだきちんと清算できていない―と私は思っているが―あの先の戦争について目を閉じ、耳をふさぐのならば、私たちのこれから、にやってくる〈夕闇〉の世界には、おびただしい数の蟬の抜け殻が転がっている風景が広がっているだけだ。だがそれを予期しおののきながらも、あらがい、逡巡し、迷いながら目の前のことがらを見きわめ、選択し、一歩一歩をすすんでいくしかない。



■ 原口昇平さん『(ランナー あるいは破裂する風船)』http://hibariryouri.web.fc2.com/11/haraguchi2.htm

手と目、いわゆる触覚と視覚、特にこのふたつのモチーフを起点として、ある種の幻視を展開する(と読んだんだけど、盛大に誤読しているかもしれません……)。

手に関すること。〈影をつか〉むのは手であるし、〈パントマイムする手のひら〉、〈両手を縛られた巨人〉も手に着目している。

それから目。〈夢見る少年〉の〈まぶた〉、〈一度も見たことのない壁の向こう〉、〈両眼を隠された恋人〉、〈不可視の帝国〉、これらは見ることに関すること。

ランナーに対する私のイメージは、まあ文字通り走る人であるのだけれど、入念に準備をしたマラソンランナーが道の先へ、奥へ向かって走り去っていくそれがある。ランナーは遠くへ、遠くへ、さらに遠くへ。その「遠さ」をもとに考えてみると、作中のランナー、鳥、少年、蜃気楼、明日、壁の向こう、不可視の帝国、これらはすべて遠いところにあるもの、あるいは遠いところにむかうもの、つかめないもの、たどりつけないところにあるもののいずれかを表象している。〈砂に濡れた馬賊たち〉もユーラシア大陸の東の果ての島国に住んでいる私にとっては遠い存在。そして、〈透明人間〉は、私たちのすぐそばにいながら―現に今この瞬間にも私たちのすぐ背後に立って一緒にディスプレイをのぞきこんでいる可能性もありながら―、その知覚できないという点において、私たちともっとも遠いところにいる。それから見方をかえれば、それら並列されたイメージのタペストリとでもいえばいいだろうか、この作品では並べられたものものの「遠さ」というものが意識されて織りあげられ、形づくられているように思う。全体としてはひとつの作品であるけれども、その縦糸と横糸は限りなく遠い。そうなると最終行の〈きみ〉ですら、遠い。

ところで冒頭にもある風船が破裂するのはなにゆえだろう。仮にそれを透明人間の仕業だとすると、その行動は、誰にも認識されずにさまよう透明人間の、自身の存在を主張するような、ある種の叫びなのかもしれない。



■ 細川航さん『無言歌 v 』http://hibariryouri.web.fc2.com/11/wataru1.htm

先の原口さんの作品にはかすかながらも声があった。けれども声のない無言になった歌には、耳を圧するほどの静けさと、こちらがふるえるほどの峻厳さが内包されている。ときには歌い手を引き裂くほどに。

ここでは色に注目してみたのだけれど、〈花畑〉の色とりどりの色彩にあふれたイメージからから、〈火〉、〈赤い糸〉と単色の「赤」に限定されていき、おそらく切った指から流れる血は赤黒く、〈ピアノ〉が想起させる(グランドピアノの)「黒」に、最後は収束する。現在進行形ですすむ〈すべての終わり〉と〈そのあと〉。つまり〈すべての終わり〉以後の終末的イメージも、私の場合、かぎりなく黒に近い色を想像する。

そこで奏でられる音楽。音楽というか、音である必要もないのかもしれないが、すべてが終わったあとの、誰もいないところで、ほとんど弾き手を想定していない音楽とは、いったいどういうものなのだろうか。「終わり」という点で連想するならば、オリヴィエ・メシアンの『世の終わりのための四重奏曲』なのだが、かの曲には明確に音があり、演奏される。演奏する、人がいる。

作中の〈欠けたアルペジオ〉は音の欠落しているアルペジオととったが―もっと別の含意があるのかもしれないけれど―、それはどのように響くのだろうか。それにのって声のない旋律はどのように歌われるのだろうか。どこまで届くのだろうか。どこまでも黒い世界で。もしその音楽に色をつけるのならば、アニメ『魔法少女まどか☆マギカ』の登場人物「アルティメットまどか」のテーマカラーのような色がいいなあ、と思います(悶)。



■ 細川航さん『無言歌 vi 』http://hibariryouri.web.fc2.com/11/wataru2.htm

こちらでも色を追っていくと、緑、氷の透明もしくは白、土の茶色、骨と毛には白が見える。『無言歌 v 』の「赤と黒」から、『vi 』では「緑と白」と、色相的にも補色というか、対峙するものを用いて真逆の色のつかいかたを見せている。白い色にはたとえば、空漠のイメージ、静寂のイメージがあるが、「静寂」という語は非常に安定的な印象がありながら、たとえば上下左右がすべてまっ白でなにもない空間にぽつんと放り出された場合、気圧された感覚や、つよい不安感をいだくこともあるかもしれない。

ところで、〈氷の上で暮ら〉すことになるのは、別に人でなくてホッキョクグマであってもいいのかもしれない。もうこの歌をうたっているのは人でなくてもいい。喉のつづくかぎり音のない絶唱はつづいていく。絶え間のない静寂、冷厳な静寂、動くものをいっさいゆるさない静けさ。それと同時に耳に鳴り響く騒乱、狂乱、喧噪、騒擾、トーン・クラスタ。

音楽について語るとき、まず、音楽が成立するためには「静寂」を必要とする、という話は定番である。芥川也寸志によれば、それは「かすかな音響が存在する音空間」(*1)での静寂、という但し書きがつき、適度な音の響きがその場になければ音楽が音楽たりえないことへの言及がある。周辺環境が極度の静寂下にありかつ反響が極小である場合、音が発生するための大前提としての「ひびき」が失われるために、それは音楽として成り立ちえない。

あるいは逆に絶え間ない炸裂音ないしは爆音下での音楽はどうだろうか。そもそもその音楽自体がかきけされて私たちの耳に届かないがゆえに、これも音楽として成立しえない(ノイズ・ミュージックはたぶん別として)。くわえて、「……程度を越えた静けさ――真の静寂は、連続性の轟音を聞くのに似て、人間にとっては異常な精神的苦痛をともなう」(*2)ことに鑑みれば、静寂と轟音は相反するようでいて、コインの裏表のように背中あわせのとても近しい関係と認められるだろう。

静寂と轟音を内包するこの詩が喚起させるいくつかのイメージ。どこまでもつづく氷床と地平線、白色度の高いくもり空、そこにぽつんとたたずむ白いホッキョクグマが見えてこないだろうか。時が過ぎればそこには白い骨と白い毛。さらに時が過ぎれば春のぬくみにふわふわとただよっていく(かもしれない)綿毛。そこにこめられたかすかな願望。〈きみのために〉、静寂と轟音を並列に存在させ、通常なら成立しないはずのところのぎりぎりにおいて形づくられている歌。

そしてやっぱりこの作品には、ラヴソング的な響きがするように感じられるように思う。〈きみ〉が特定の誰かをさすとは限らないし、一般的な「ラヴソング」というのとは、またちょっとちがう気がするのだけれど。


*1, *2:芥川也寸志『音楽の基礎』岩波新書







散文(批評随筆小説等) 【レビュー】雲雀料理11号の感想 1/4 Copyright mizu K 2014-01-28 21:11:05
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