問答BROTHERS
ただのみきや
「……解ったか? 」
「 否 何も」
「 感じたか? 」
「 ああ 何かは」
「知りたいか? 」
「それを? それともそれについての知識を? 」
「与えられるのは知識だけ あとは自分で《知る》に至れ」
「どうやって? 」
「この世界にある全てのもの そして己の理性と感性」
「どうしたら自分が《知った》と解る? 」
「《知った》そう確信できた時 おまえは知ったのだ」
「客観的には判断できないのか? 」
「客観的には判断できない」
「思い込みではないという保証は? 」
「なにも無い」
「……感情が感情を試せなくても
論理は論理を試せるだろう? 」
「その通り だが人の理性を至高と見なし
論理的帰結を絶対的なものと位置付けるならの話だ」
「間違いを犯さないって訳ではないが
己が人間であり 人間以上の理性を知らないのなら
そこを重視するしかないのでは」
「だが論理的帰結のみで誰かが信じていることを本当に変えられるか? 」
「……たぶん無理だな」
「論理的帰結のみで本当に 己は《知った》と確信できるか? 」
「……まあ一つの見解というか解答だろうな」
「《知る》とは 主観的な《知った》という
確信なしには至れない己の内に開く扉なのだ」
「ぜひ思い込みとの見分け方を教えてほしいものだね」
「おまえが言った通り 論理だ」
「だけど論理も不十分なんだろう? 」
「そうだ客観的視点のみで主観的な確信を得させることはできない」
「でも主観的なものが絶対なら
世界はエセ教祖とサイコパスの楽園になってしまうのでは」
「否 主観的主張のみで客観的な理性を納得させることはできない」
「それじゃあ話を戻しますけどねえ いったい
どうやって《知る》とか《知った》とか言えるんですか? 」
「《知る》も《知り得ない》も己の心の解答だ
信じる生き方や考え方によって変わるもの
個人の心の中の確信を万人に納得させる必要もなければ
その誰かの確信を傍からこき下す必要もない」
「それはつまり両方に左程の違いは無いって こと? 」
「たとえ全く違う答えを出したとしても
人はみな同じ問の周りに佇んで心を悩ます
生涯学生のようなものなのだろう
……解ったか? 」
「ごめん兄ちゃん さっぱり解らない」
《問答BROTHERS:2013年11月17日》