多義性のデザイン(アスパラガスさん讃3)
渡邉建志

風が吹く。生きなくてはならない。

教会(という名前の映画館(という名前のゲストルーム))に
僕たち読者は座っていて、目の前のスクリーンに、
それぞれ違った夢を見る。

「それぞれ違う」ことを許すデザイン。
言葉という、明確化する機能を使っているのに。
どのようにして、言葉が、多義的なまま、
放置〜デザイン、されうるのか。

風が吹いたら、なぜ生きなくてはいけないのかは、
たぶんそれぞれが考えること。
それは、僕にとっては、ここに場所を借りて夜更かしをして、
今日しか書けないことを書くこと。

一番好きな詩について書くこと。
僕なりの熱狂を。






スケートリンク   アスパラガス



晴天の下
きみの部屋のぶあついカーテンに
冬を越えたものたちが
白く貼りついた
冬を越えたニワトリが
きみの部屋のカーテンに
白く貼りついた
白く貼りつくさ
冬を越えたものだけが


晴天の下
家でニワトリを
焼いて食べてきたガールフレンド
きみを置き去りにして
ニワトリに手をつけて
氷の上に出てきた
きみのガールフレンド
その唇の健康さに
ぼくは見とれているんだよ


だからぼくが冬にやることは
きみのガールフレンドを連れて
街の真ん中にあるスケートリンクの
氷の上をすべることだ
きみのガールフレンドに向かって
かわいいねって言うことだ
たかく縛った髪の毛に吹く
風以外を追っ払うことだ
靴を借りて
きみのかわいい恋人の
すべりだしのスピードで
この器官を冷やすことだ
この器官にのみ込むことだ
冬のつめたい塵をまぜて


白く貼りつくさ
きみの部屋のカーテンに
白く貼りついて離れないさ
冬を越えたものだけが
ぼくはスケートリンクにとじ込められた
きみの日なた
日なただよ










アスパラガスさん讃3


「ちなみ」において多義的なベクトルのあっち向き、こっち向き、
が、そのままにデザインされていたのと比べて、
意外にも「スケートリンク」はまっすぐとどく。リフレインとともに。
僕はあまりにもこの詩が好きだ。

最後の3行。
個人的な(しかも曖昧な)記憶を話すことにきっと誰にも意味はないのだけれど、
浮遊する緑色の掲示板にこの詩が発表された(かどうかも記憶は曖昧)とき、
最後の3行を読み終わったときの不思議な浮遊感をやはり僕は忘れないだろう。
僕はあまりにもこの詩が好きだ。



ぼくはスケートリンクにとじ込められた
きみの日なた
日なただよ



「ぼくは」のあとに点もスペースもない。「とじ込められた」まで読まれ、
そこで一旦改行が起こる、そこに一瞬の沈黙がある。
沈黙は一瞬だからこそ浮遊する。
浮遊はポーズ(pause)だ。次に何が来るか僕らは待つ。
「きみの日なた」と言い放たれてまた空白が右に待つ。一瞬の沈黙。
「日なただよ」
ここに、もはや沈黙はない。そこに強く発声された訴えがあるからだ。(「だよ」…)
訴えの発音の物理的な波が消えたからと言って、訴えが消えることはない。
最後にはわれわれにパウゼはない。サスペンドされない。
われわれは満たされている。
訴えに。
きみが「日なた」であるという訴えに。
きみという「日なた」にわれわれは満たされて、幸せな恍惚が訪れる。
僕はあまりにもこの詩が好きだ。

あまりにも満たされるので、読後、僕にはこのスケートリンクが、
空の上にあるとしか思えなかった。この世にあるものとは思えなかった。
とても透明だ、と思った。上空500メートルぐらいにあるように思った。
あなたはもっと高いところを考えるかもしれないし、あるいは空に浮いているなんて
思わないかも知れない。
いずれにせよ、このスケートリンクの絵は、読む人にすべて任されている。
スケートリンクは街の真ん中にあること以外何も書かれていない。
でも、スケートで滑るようなスピードで、リフレインとともに詩は書かれているし、
そのスピードの中で、おのおのがいちばん美しいスケートリンクを考える。
まず、晴れてる。冒頭。


晴天の下
きみの部屋のぶあついカーテンに
冬を越えたものたちが
白く貼りついた
冬を越えたニワトリが
きみの部屋のカーテンに
白く貼りついた
白く貼りつくさ
冬を越えたものだけが


3回も白く貼りついているし、3回も冬を越えている。2回のきみの部屋のカーテンに、
「ぶ」あついカーテン(意外とあっさりコロキアルな表現を入れる詩人の特徴について、
前回指摘したようにおもう。ここでもこれはとてもきいている)に、
ニワトリ(!)が貼り付く。という絵はそのままではあまりにもグロテスクだから、
僕の脳内はそれを描かずに別の映像処理をする。たぶん、このニワトリは、多義性を担う
一つの役割だと思う。そのまま一義的に貼りついてもらっては困るもの。
部屋のカーテンにニワトリがスプラッタしてるのにさわやかにスケートなどできるものか。できはしまい。
ニワトリは「ぶつかって」いるわけではなく、「貼りついて」いる、
しかも「白く」。
だから、そこに衝突性はなくて、もっとすぱっと、貼りついた気がする。
窓への3次元的衝突ではなく、カーテンという布へ。だから2次元的な、
ど根性ニワトリな感じもする。
と思ったら、


晴天の下
家でニワトリを
焼いて食べてきたガールフレンド


とやっぱりニワトリは南無阿弥陀仏ご臨終。かわいいきみのガールフレンドは
2回目の「晴天の下」でニワトリを焼いて食べてきている。のみならず
きみを置き去りまでにしている。それを「ぼく」は糾弾する。


きみを置き去りにして
ニワトリに手をつけて


「て」と2回言うんだからやっぱり責めているんだろう。
(置き去りはひどいけれどいま「きみ」はどこにいるんだろう。この詩の謎のひとつ。)
「手をつけて」と、ここでも「て」のリズム。
ニワトリに手をつけて、って、まるで女の子に手をつけるみたいな言い方。浮気的な。
きみを置き去りにしてニワトリに手をつけてって。しかもニワトリ死んでるのに。
で。これだけの悪行をした上で、彼女は、


氷の上に出てきた
きみのガールフレンド


彼女は、氷の上に「出てきた」。この出てきた感!
この、チャールズ・М・シュルツ的出てきた感!
そして「ぼく」は、おそらく友人たる「きみ」のために彼女の悪行を責めていたはずが、


その唇の健康さに
ぼくは見とれているんだよ


見とれている。鮮やかに反転して美しいです。
スケートリンクで健康な唇のガールフレンド(きみの)、ニワトリを食べた後の健康な唇(そのユーモア。)

たぶん一番言いたいことは次の連に託されていると思う。
ものすごく、ものすごく熱い。
熱狂だ。


だからぼくが冬にやることは
きみのガールフレンドを連れて
街の真ん中にあるスケートリンクの
氷の上をすべることだ


断言の「だ」、この詩1回目。
きみの唇が健康「だから」、ぼくはなにをやるのかをつぎつぎと断言していく。
このスケート的スピード感。
しかも話している方向はこの場にいない「きみ」に向けている。
この、視線あっち向きの、スケートリンク感。まっすぐみない、くるくるまわりが回っていく感じ。
1個目の「だ」は、おそらく友人たる「きみ」を裏切って、「きみのガールフレンド」を連れて氷の上を滑ることだといった。2個目は、


きみのガールフレンドに向かって
かわいいねって言うことだ


2個目の「だ」はさらに友人(おそらく)を裏切って、かわいいねって言うことだという。


たかく縛った髪の毛に吹く
風以外を追っ払うことだ


3個目の「だ」はもうきみもきみ以外も追っ払ってしまって、
たかく縛った髪の毛のかわいいガールフレンド(きみの)とぼくしかいないめくるめくスケート世界になっていく。


靴を借りて
きみのかわいい恋人の
すべりだしのスピードで
この器官を冷やすことだ
この器官にのみ込むことだ
冬のつめたい塵をまぜて


4個目、5個目の「だ」はすこし長めに、この「器官」を「きみの恋人のスピード」で「冷やすこと」、
(何かを)「つめたい塵をまぜて」、「この器官にのみ込むこと」だという。
器官は何か、というのがそれぞれの読者のテーマになるのだけれど、
僕は肺的な何かだという印象がある。
のみ込まれる(何か)は空気的なものだという印象がある。
この詩に明示的に風という言葉は一度しか出ないけれど、
ニワトリも冬を越えて貼りついたりしているから、
やっぱりずっと風は吹いているような気はする。
風が吹くと桶屋が儲かるし、桶屋としては生きなくてはならない。

ぼくときみときみのガールフレンド(とニワトリ)の三角関係(または四角関係)が、
ぼくときみのガールフレンドのペアスケートで高らかにクライマックスを迎えているとき、
突如冒頭のリフレインが現れる。


白く貼りつくさ
きみの部屋のカーテンに
白く貼りついて離れないさ
冬を越えたものだけが


最初から「さ」という語尾に変わっている。
強く歌ってくる、訴えてくる。
「白く貼りつくさ」
1連目では「白く貼りついた」が2回助走してくれて、
初めて出てきた「白く貼りつくさ」だった。
でもぼくときみのガールフレンドはもはや助走は必要なくなっている。
滑り出したそのスピードで白く貼りつく「さ」って言うことができる。
2回目はもうさらに長くなって「白く貼りついて離れないさ」と言う。
念押しに言う、倒置してまで言う。2回倒置してまで言う。
でも、実は言っていることはよく分からない。
2回倒置してまで言っていることは(ストレートに解釈すれば)
ニワトリが「きみのガールフレンド」のカーテンに貼りついて離れないさ
ということに過ぎないからだ。これでは意味がよく分からない。
だから、きっと、これは多義的であることを求めていて、
読む人の大半は誰もニワトリの絵を思い起こさないようにできている(思い起こしてもいい)。
何を思い起こすか(思い起こさないか)はともかく、
ここには訴えがある、そして歌がある、そしてわれわれは満たされていく。
重要なのは、満たされたまま「冬を越えたものだけが」で改行しないことだ。
そのままそのスピードで次の三行に流れ込むことだ。


白く貼りつくさ
きみの部屋のカーテンに
白く貼りついて離れないさ
冬を越えたものだけが
ぼくはスケートリンクにとじ込められた
きみの日なた
日なただよ


「冬を越えたもの」はもはやニワトリではなく(だってそもそもニワトリは渡り鳥的には越冬しないじゃないか)
冬を越えていく風のようなスピードのように僕は思う。
そのスピードの風の中に、突然、「とじ込められる」という非動的な動詞が出現して、
ぼくは驚いてしまう。
風の吹く晴天の下で、スケートリンクは徐々に照らされていく。
ここまで激しくスピード、スピード、スピードで走ってきた詩が初めて、
じんわりと暖かく広がる動きに変わる。
もはや「きみの日なた」の「きみ」が、
いままでの「きみ」か、
「ガールフレンド(きみの)」のことだか、判然としなくなる。
判然としないまま、恍惚として溶ける。
「日なた」が「とじ込められる」という主語と述語の組み合わせを見たことがない。
この意外性は、これ以外にない必然性をもって僕に迫ってくる。
どのように「日なた」が「スケートリンク」に「とじ込められる」か、この可能的映像は、
読者それぞれが定義しうる多義性を持っている。
その自由を与えられている。
そのうえで僕は、納得してしまう。
そうか。「ぼく」は「きみ」の「日なた」なのか。そうか、そうだよね。
だって2回も言うのだもの。だって、君は2回も言うのだもの。
1度見れば日なたは日なただって、ふつうわかる。だって、明るいし。
でもアスパラさんは2回言う。

きみの日なた
日なただよ

って言う。これは、明らかに届けようという意志が働いているのだとおもう。
「ぼく」が「きみ」の日なただって、気づいていないのかもしれない。
いや、たぶん気づいていない「きみ」のために、2回書かれている。
強く訴えかけてきている。
この、「きみは気づいていないかもしれない」性。そこに僕は激しく打たれる。
「とじ込められ」ているのは、「ぼく」が、
きみだけ(!)のための「日なた」だからかもしれない。
もしかしたら空の上から「ぼく」はそう言っているのかもしれない。
もはや妄想すぎるけれど、どんな暗い絶望的な状況にいるとしても、僕のために、
だれかが、僕だけのために閉じ込められた日なたでいてくれて、
きみの日なた、日なただよ、って言ってくれることがあるかもしれない。
だから僕は生きなくてはならない。

僕はあまりにもこの詩が好きだ。
僕はこの詩に熱狂しているし、熱狂は誰かに伝わる。
それが伝わるとき、生きているということに僕なりに意味がある。
そうやって生き続ければ、僕なりに誰かの日なたになれる日がくるかもしれない。
アスパラさんがこの詩を通してくれた、日なた、
アスパラさんが上空500メートルのスケートリンクに行ってしまってからもずっと、
僕の心に残り続けている、暖かい日なたのように。


散文(批評随筆小説等) 多義性のデザイン(アスパラガスさん讃3) Copyright 渡邉建志 2013-11-01 03:45:47
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