夏の送別
梅昆布茶

 「誰でもない何処にもいない」


何回目の夏を送別したのかは とうに忘れてしまった

火傷するほど熱い砂を踏みながら 水平線と湧き上がる雲の先に

いかなる幻影を見出そうとしていたのか 

定かでないほどに たくさんの夏がきらめいて去った


波を怖がる幼いわが子と とり残された小さな干潟で蟹や小魚に戯れ

永遠に家族であろうとも思われたた午後 すでに夏は夕暮れを孕んでいた


やがて夕立がやってきてすべての砂の城は崩れ去り

また海岸線の風景に音もなく呑み込まれてゆく

言葉は所在無げに 唇をかすかに震わすだけだった


幾度もの送別をもたらした夏は また記憶の片隅の小部屋に遠のいてゆく

書きかけの日記のように ピリオドを打たないままに

何処でもない場所にもどってゆくのだろう


誰でもない 何処にもいない 

僕の夏が またひとつ何かを置き去りにしたまま

鮮やかに あの夏へとフェイドアウトしていった




 「僕らの空間 僕らの時間」


遅い朝食のトーストを齧りながらミルクたっぷりのコーヒーを味わう

向かいの山頂には巨大な電波中継塔が聳えていてこのあたりの目印となっている


かつて涼風を運んでくれた緑陰はだいぶ減ってしまって

裏の崖下にも家が建ってしまったが それでも街中しか知らない眼には 十分の緑に思われたのだ


君はこの山にへばりついた家が好きだった

アップダウンの激しい地形を車で走るたびに まるでジェットコースターみたいだねって

はしゃいでいたものだ

しかし冬ちょっと雪が降るだけでも

車が登らなくなるぐらいの傾斜が続く


僕は空の広さがとても気に入っていた 

夜の窓辺からのぞむ街の灯りが好きだった 星が近くに見えたし

君の息遣いもそばにあった

子供たちに混じって犬たちも転げまわっている


それは僕らの空間 僕らの時間と呼んで良い筈だった

琥珀のなかに閉じ込めてしまえば良かったのだろうか

たとえそれが幻像だとしても

喪失の深さとひきかえに

なにをおそれることがあったただろうか


いくつもの季節を味わい 小さな軋轢を重ねあって

それぞれの名前を忘れてゆく そんな場所があったことさえも

いずれ風化し去って消えてゆくものたちの

かたみさえも残さずに



自由詩 夏の送別 Copyright 梅昆布茶 2013-09-04 19:35:47
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