ネゴシエーター
salco

一九七〇年八月
母は二十何年かぶりの帰省を決行した
復帰前の沖縄
前回は渡航制限とフトコロ事情で
密航とはいえ鼻息荒いものだった
東京で贅沢させてやるとたぶらかし
花もはじらう妹二人に掃除婦と釘拾いまでさせ
生涯の恨みを買ったが
今回は日米両国に臆する事なく
パスポートを取り予算をドルに換え
小学生の長女と長男を伴った

小商いを夫に譲り
家計の安定化を図って小出版社に就職し
美術全集二十巻と文学全集百二十巻余
この自腹を以て営業成績とし
半年ほどで辞めた後
宮崎県の免許で時間講師と産休補助の教職に戻り
一年余
問屋で値切る吝嗇に油を注いで節約を重ね
下の二人も連れるほどには貯めてなかった


正午過ぎ
レモンイエローの綿ピケワンピースの姉は
パウダーピンクのお子様スーツケースで決め
巨人軍帽の兄は
紺のポロシャツに黒のボストンバッグ
母は朽葉色の綿レースのスーツで
水色のボストンに黒ハンドバッグとあれやこれやの紙袋を腕に引っかけ
鼻から火焔を上げて玄関を出て行った
羽田空港発、ノースウエスト航空便

その夜、ご飯も済んで
テレビを観ていると黒電話が鳴った
父が出て驚いている
ノースウエストのミスで座席が塞がり乗れなかった
出発は明日午前に変更
羽田の東急ホテルに泊まっている
部屋はタダ、食事もタダ
よかったら今から来ないか
ではモーニングを食わせてやるから明日来い
私はホテルに泊まってみたかった


モノレールで羽田に向かうと
すっかりうらぶれた中層ホテルが見える
時流の番外地でぼってり塗装を重ねただけの
自動車教習所かタクシー会社と見まごう今と違い
当時は白亜の豪奢だった
シャンデリアのクリスタルが恭しい煌きを乱反射する
革のソファが配されたラウンジレストラン
私と弟は生まれて初めてホテルの分厚いトーストとオレンジジュース
半熟のさまも典雅なハムエッグを食べ
恥を知る父はロビーで待っていた

鼻の穴から煙をくゆらせ
ふんぞり返ってコーヒーを流し込む母
ウエイターは明らかによそよそしく
兄は恥じてぷりぷり怒っていた
ツインの部屋でベッドに寝たと姉は上機嫌で
昨夜はルームサービスでステーキを食べ
パンではなくライスにし
コンソメスープとサラダ付き
デザートにはメロンとアイスクリームが出
酒を飲まない母が赤ワインを注文したと

航空会社に二室を要求し
シングルに寝たイビキ持ちの母は
予定日時に渡航できなかった重大損失の見返りに
ファーストクラスも要求し
それは予約の関係でどうしても無理だと拝み倒され
これで勘弁してやったのだった
モノレールと電車で一時間半の家へ戻れない理由に
折衝担当者とその上司が何故、折れた方が得策と判断したのか
大人になったらこれが謎だ


がら空きバスでホテルを後にし
国際線搭乗口で別れを告げ
三人は機上の人に
残り二人は展望デッキでソフトクリームを買ってもらい
鉄柵に張りついて眺める機体の巨大
パンナム水色の地球、日本航空赤い鶴
KLMはオランダ航空、紺の帆船は全日空
横腹と尾翼を色とりどりに
もう飛び終えたかのような安穏に居並ぶ
父が指す機体に目を凝らして窓を辿ると
髪の長さで姉とわかった
手を振ってみたが気付かないのか
もう取り返しのつかない所にいて
もうすぐ空へ旅出てしまう

いよいよ赤いノースウエストが滑走路へ向け
複雑なジグザグをのろのろ、淡々と遠ざかり
スタート位置で機首を右手に向き直ると
小さな陸上選手みたいに静止した
やおら耳をつんざく金属音を轟かせて疾走を始め
滑走路の先でおもちゃみたいに地を離れた
上空を半旋回して点となった機影が青に溶けるまで
私は涙をこらえていたが無論
危篤の祖母がピンピンしているのを知っていた


自由詩 ネゴシエーター Copyright salco 2013-08-26 23:30:28
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