○○○のはなはよるひらく
佐々宝砂

横向きの首をゆっくり上向きにする。
夜が来ていることをたしかめるように息をする。
汚い音をたてて空気を吐き出し
汚い音をたてて空気を吸い込む。
夜だ。
夜の臭いがする。

手探りで自分の顔を確認する。
鏡を見る気が失せてからもう長い。
ファンデーションとチークと口紅で抵抗したこともあったが
いや、年齢の話ではないし
器量の問題でさえない。
この顔に皺はない。
皺がなければいいという問題でもない。

問題は顔のパーツがちゃんとついていて機能するかどうかだ。
目はひとつ使い物にならなくなった。
残るひとつにもあまり時間は残されていないと思う。
歯もほとんどが落ちてしまった。
舌と声帯はまだ使えるので喋ることはできる。
喋る必要はないのだけれど。

それをいうなら息をする必要だってないのだけれど
息をするのは臭いをかぐためだ。
私の体臭は芳しくない。
特に昼日中はよろしくない。
本人は馴れてしまっているし
そもそも人に会うこともないので気にする必要はないが。

上体を起こす。
やや苦労して寝具から身体を引き剥がす。
ちょっと失敗した。
取り返しはつかない。
こうやって私は日々欠損してゆく。

しかし今は夜だ。
少しなら出歩くこともできる。
夜の道にながれる夜の臭い。
視力が喪失してもこの感覚を味わうことはできるだろう。

夜こそは私の時間だ。
こうなってしまってから。
いやこうなる前からきっと。
こうなると決まっていたのだからきっと。

冬の夜だがとうぜん煖房はつけない。
むしろ冷房をいれたいくらいだ。
冷え冷えとした夜の空気の中
私は久しぶりに腐った肺をフル活動させて息を吸い込む。


#蘭の会 2012年12月「ひらく」
# http://www.hiemalis.org/~orchid/public/anthology/201212/


自由詩 ○○○のはなはよるひらく Copyright 佐々宝砂 2013-07-24 13:13:58
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