カブトムシとクワガタ
TAT











































































カブトムシの名前はユリウス。クワガタの名はカエサル。特に名前が必要な訳ではないが、彼は二匹の虫をそう呼んでいる。神経を束にしてひねるような一本目の煙草の享楽が過ぎてゆく。凪。逃げてゆくものに追いすがろうとして惨めな惰性で再び煙草に火を灯す。ヤニが焦げる嫌な匂いと味が広がる。二本目も三本目も想像を超えない。獰猛な夜が外套を持たない者を呑もうと窓の向こうで手薬煉を引いている。陶器の皿の上ではスペアリブの骨と脂身が茶色いソースの曲線と混じり合って息絶えている。白々と光るフォーク。黒を含む深い緑色をしたトマトのヘタ。眠る前の安価な平穏に身を浸しながらテーブルの上の緑茶に手を伸ばす。明日は無論仕事で、明後日もその次もその又次も仕事に出掛けねばならない。たった一度きりの人生の時間を、生ハムのようにスライスして切り売りする。産地も味付けも定かではなく、防腐剤や着色料にまみれて真空に閉じられたそんな物を誰が買うのか。彼には到底理解できなかった。しかし輪は何故か回っていて、回っているものを止める事は誰にも出来ない。弾き飛ばされて死にながら笑う事は出来るとしても。アスピリンやトランキライザーの為に書ける詩はないだろうか。そんな事を考えながら彼は闘技場の歓声を聞く。砂埃と風。牛と剣。赤い主題。通路に響くスパイクの音。暗がりから四角い光の中へと呑み込まれてゆくサッカー選手達。ホセ・メンドーサ対矢吹丈。彼は自分の頭の中のカブトムシとクワガタを戦わせる事にした。ずっとそうしてきたように。彼の頭の中のユリウスとカエサルは、戦いを戦う為に戦う。ずっとそうしてきた。
『お前の悲しみは偽物だ。お前の孤独も、お前の愛も、お前の強さもお前の弱さも偽物だ。全部が全部、がらんどうだ』
『それがどうした。多かれ少なかれ皆そうだろうが。それが何か問題か?』
『開き直るな。惨めなもんだな。本当に愚かな事は、愚かであることを分かっていながら愚かな事をする事だ。』
『一般論は他所でやれ』
『OK。じゃあこうしてやろう。一般論でない、固有な、お前だけの人生を、一から順になぞっていって断罪してやる』
『すればいいさ。お前が意味の無い事に時間を費やすのもお前の権利の内だ』
『意味はあるさ。お前をぺしゃんこに出来る』
『ならんね。よしんば出来たとして、ぺしゃんこにしてどうする?』
『無論、是正して生まれ変わる』
『お前がか?』
『お前がだ』
『分からんね。不毛だ。いや、不毛でさえもう少し意味を持ってるぜ?』
『赤ん坊の頃から順番にやってゆくのが良いかい?それともこちらから遡ってゆくか?』
『聞く耳を持たず次に行こうという訳か。全く頭に来る野郎だ。神様気取りやがって。俺はお前のそういうスカした傲慢な所が大嫌いなんだ』
『それはどうも有難う』
『あの時もそうだ。あの女は抱いちまうべきだった』
『あの女?どの女の事だ?』
『忘れたとは言うなよ?学生だったあのアルバイトに来てた子さ。十七歳だった。格好つけて社会人ぶって結局は抱かなかった。最後は泣きそうになってた。』
『あぁ、コトリの事か。抱きたかったか?終わってからそんな風に悔やむのは一層醜いね。あさましく、いじましいね。ともあれ、俺が順に行くか逆から遡るかと聞いているのに不意に任意の一点を持ち出してきて混ぜ返しにする手腕は中々見事だね、どうも。狡猾ですらある。お前がそうやってくぐり抜けて直面するのを避けてきた談論の数は幾つだ?百か?二千か?なぁ、そうやって逃げて一体何になるんだ?いい加減ケリをつけようぜ』
『上から抜かすな、片道ボルト馬鹿。イルカは浜辺で揺られてろ』











快楽は罪か愛は必須か。


















女が大丈夫かと手を重ねてくる。芯まで冷えた冷感症の細い指で頬を撫ぜられて彼は一命を取り留めた。なるほど希望は、実在している。錨のない船には錨を付けねばならない。彼にとっての錨は女と紙幣だ。たとえそれが脆弱な重しであろうとも、人が人の形をして生きてゆく以上、船には錨が求められる。新大陸を目指すのでなければ。
エアコンが熱い息を吐き出している。大丈夫だよと努めて明るく振り返って彼は女の腰に骨ばった手を添えた。外国の楽団の名前をプリントしたTシャツと下着と。楽園を追われたイブよりも二枚も多く着込んでいる女の瞳を、彼はじっと見つめ返す。昔、見つめ合う事の最上形として人はくちづけを発明した。くちづけながらお互いのシャツをたくし上げて腹と腹をくっつける。ベッドに雪崩れて甘い匂いのする髪を愛しているかのように愛す。彼の右手と左手が、ありったけの温度を彼女の指先に送り込む。ゆっくりと火を熾しながら、証が欲しいと女は言った。赤ん坊は無理だけど証ならいつでもあげられると彼は答えた。彼は性能の良い機械になりたいと思った。彼は彼女ではないので彼女が何になりたがっているのかは彼には分からなかった。冷酷な時計は明日の仕事の時間を今も内蔵していて、滅茶苦茶に鳴り響く時を今か今かと数え続けていた。


自由詩 カブトムシとクワガタ Copyright TAT 2013-06-16 22:08:10
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